2013年12月25日水曜日
東京だよおっかさん
今年もあとわずか。
お袋と姉貴と姪っ子が東京見物に出てきたので、俺も便乗してお供した。
スカイツリーに初登頂。
地上350m~450mの眺め。
関東平野が一望できる。
東京タワーも見えるがとても小さく感じる。
しかし人間は良くこんな巨大なタワーを建てれるもんだね。
建設業に従事している俺だけど、人からは3Kだのなんだのあまりいい目でみられない業界だ。
でもこんな物を建ててしまうエネルギーを持っている。
山や森を歩いた時の自然の景色もいいが、都会の景色も捨てたもんじゃない。
地震大国日本の建築技術はトップレベルなのだから。
ツリーを降りた後はプラネタリウムやら隅田川水上バスやらお台場の夜景やら、結構盛りだくさん。川から見る東京湾やらビル軍はいつもと違って見え、外国にいるみたい。
久々に一般人並みのレジャーができた感じ。
夜には浅草の神谷バーとかいう老舗居酒屋?に行って皆で一杯飲みながら食べた。
デンキブランとかいう名物もあった。
店員がビタいち笑っていないというか、愛想を振りまかない接客が逆に良かった。
客層もなんだか個性があり、皆でかいテーブルで相席しながらワーワーやっている。
タバコもぱかぱか。でも年齢的には少し上の人が多いから、それほど騒々しくもなくて以外に居心地が良かった。
夜も8時前になったあたりでおひらき。
皆ちりぢりになって家路へと向かった。
今週末には仕事収め。
2013年は今までにないぐらい涙を流した年となってしまったけど、来年はどうなるだろう。
悲しい気持ちは消えなくても、なるべく笑顔で過ごしていたいけれど…
2013年11月29日金曜日
TOKYO MOTOR SHOW 2013
最近は請負工事も少し余裕が出てきた。
平日ならすいてると思い、自動車業界の最大の祭典であるモーターショーを見に行った。
実際に見るのは人生初。
10時に会場に着いたが、これで平日かと思うぐらいの人出。
特に滞ることもなくすんなり当日券で入った。
どこに何を展示してあるのか良くわからないままブースに突入。
会場はとにかくすごい人で熱気がムンムン。
これで日曜日なんかに来たらどうなるのか。
メジャーな車メーカーのブースは各々のコンセプトを掲げ、様々なスタッフを投入してアピールしている。ライブコンサートのような映画のような学園祭のような
これでどこが不景気なんだといわんばかりの活気だ。
二輪も好きな俺としてはやっぱりバイクにも目がいく。
こういうところではお決まりのコンパニオンも華をそえている。
トミカのブースでは子供が目を輝かせて…
FUSOはメンテをアピールし巨大なトルクレンチ
いろいろなパーツメーカーも奮闘していた
最初は会場の規模に圧倒されていたが、いざ回ってみると以外と出展していないメーカーも多い気がした。フェラーリもなければキャデラックもフォードもない。
全体的に地球環境とか安全などに配慮した雰囲気だ。
まあ、これから来る超高齢化社会の中では自動運転やら水素で動く車も現実となっていくのだろう。
「自動運転の車なんてそんなの電車と変わらないだろ」って思ったりもするけど、おじいちゃんおばあちゃんが運転する事を考えると、それが正解なのかもしれない。
3時間ぐらい会場を歩いたけど、初めてというのもあってすごく楽しめた。
また来ることがあれば、その年その年の変化を見ながら眺められたらいいな。
帰りは相棒の眠っている江古田の霊園にお参りして家路についた。
2013年11月27日水曜日
ランクス メンテ 2
ショック交換の続きをやってみた。
このあいだはフロントの右だけ一本やったので、今度は左側。
要領はだいたいわかったのであっさりと終わった。
次はリア。
内張りをはがす順番がいまいちわからず、半ば強引にはがして内装材が随分割れてしまった。
リアショックの頭が出てきた。
ロッドに六角が切ってあるので、六角レンチにヤトイを掛け、スパナと2丁がけで緩めようとしたら、6mmの六角レンチがねじれてしまった。へたしたら20年ぐらい前の六角レンチだったからもう駄目みたい。
仕方なく近所のホームセンターまで買出し。
新しい六角レンチで回したらすんなり回った。
ストラットを摘出して新しいショックを組み付ける。
もう片側をやるのはかったるかったが、勢いつけてそのまま作業継続。
5時間弱かけてフロント1本リア2本を交換した。
リアの内張りはあとで増し締めしたいからそのまま放置。
はずしたショックはセコハンのお店に持って行ったらタダで引き取ってくれた。
お店までの道中は新しいショックでの走行となったけど、やっぱり気持ちがいい。
道路の段差や継ぎ目を越えた時、以前は「グシャ!」って感じだったけど、それが「ダンッ」に変わった。高速を走ればもっと違いがわかるだろう。
ショック交換の構想を練って、ショック本体とインシュレーターを調達して交換が終わるまでひと月ぐらいかかった気がする。
こんなもんお店に頼んでやってもらえば済むのに、何やってんだか…
ただ最近思うのは、19mmあたりのきついナットを緩めたり締めたりというのはとても骨が折れる。
「骨が折れる」という言いまわしが身に染みるというか、へんてこな体勢での整備は踏ん張って骨折か脳卒中にでもなってしまう感じがする。
ガレージでもあって、趣味の車をゆっくりイジる環境があればいいけどそれもまた夢の世界。
そろそろこの辺の作業はやめた方が良いのかしら…
2013年11月25日月曜日
ランクス メンテ 1
9月半ばに購入した、カローラランクス。
70日ぐらい経ったけど3700kmとずいぶん走った。
仕事やら帰省やら山道やら、どれを取っても使い易い。
高速道での俊敏性もピカいちで追い抜きもラクラク。
軽いボディと2ZZの組み合わせだから、バイク並みの加速をする。
ただやっぱりショックが仕事をしてない感じがあって、車体がフワフワガタガタしている。
これだけは換えたかったのでいろいろ調べてみたが、モンローとKYBぐらいしかない。
もともと純正からローダウンコイルのグレードだから、KYBのローファースポーツが良さそう。
フィールダー用の品番だがランクスでも形状は全く一緒のようだ。
早速ネットで取り寄せしてDIY交換を試みる。
ストラットはどうにか取れたけどフロントショックのナットが回らなくて断念。
カローラ店に持ち込み交換をお願いし、いざ交換となったその場でトムスのホイールが少しはみ出ているとの指摘を受け、交換を断られてしまった。
その他の大型店や町のショップに持ち込み交換を問い合わせてもパッとしない対応。
こんな事をやっていると、「やっぱり自分でやろう」という気持ちが再燃。
なのでDIY交換を再チャレンジ。
ショックのナットはストラットをはずす前に緩められる事がわかったのでやってみた。
片側だけジャッキアップするとスタビの応力でリンクバーがはずれない事は前回苦労して習得したのでなんなくストラットをはずし、バネをコンプレッサーにかけてやっとこさショックが取れた。
TRDスポーツMの車両には純正でモデリスタの足回りが入ってる。
グリーンのショックがその証で、筒体にはKYBの刻印が入っていた。
新品のローファースポーツの方がちょっとだけロッドの長さが短いショートストローク。
コイルがもともと短いからグリーンの純正ショックもショートなのかと思ったらそうではない。
ブルーのニューSRでも問題なさそうだ。
新しいインシュレーターは用意しておいたので、付属のナットとバンプラバーを使い
無事に組み付けを終えて車両に装着。
13万km越えの古いショックは押しても戻りがすごく遅くてフニャちん状態。
もう片側をやる時間がなくなってしまったので、右前だけ新品ショックが入った。
ショートストロークにしても車高が下がる事もなくひと安心だ。
以前乗ってたマスタングもショックを換えただけで劇的に乗り心地が良くなった。
古い車はショックを換えてやるだけでかなり変る。
日本は、「足廻りを弄る=ローダウン」みたいなところがあるけど、
バネを換えるよりまずはショックをリフレッシュした方が車は生き返る気がする。
いっぺんに換える時間がないので、フロントリアを何日か掛けて換えていこう。
DIY交換も一時断念したけど、とりあえず一個だけでも換えられて良かった。
ショップに頼むと5万円も持って行ってしまう。
DIY整備は安全第一でやらないとそれなりの危険もあるが、達成感があるし勉強になるし車がボロでもこうして愛着がわいてくるんだ。
2013年11月7日木曜日
一年の三分の一
社長が逝ってもうすぐ四ヶ月が過ぎようとしている。
あの時の夏も例外なく暑かった。
仕事も気違いみたいに忙しかった。
蒸し風呂みたいな現場の中でただ呆然と体だけが勝手に動いている状態だった。
泣きながら仕事をしてた。
しばらくすれば落ち着くと思った。
でもいまだに夕立みたいに突然悲しい気持ちがやって来ては過ぎ、やって来ては過ぎ、
この繰り返し。
男のくせにいつまで泣いてるんだという状態。
仕事はまあどうにかそこそこ稼いでる。
自分の時間もそこそこ持てるようになった。
住まいや車や趣味やらもう少しグレードアップしたらどう?っていうぐらい質素なままだけど、あんまり欲が沸かない。
なんでオレだけしゃあしゃあと生きてるんだろうって思う。
あの人と過ごしてきたた永い時間は、辛く厳しい事もとても多かったけどすごく充実していた。
貧乏でもなんだかあまり気にならなかった。
「オレがなんとかしなきゃ」、っていうスイッチが勝手に入って頑張れた。
でも今はとっても静かになってしまった。
一緒に出掛けたり、飯を食べたり、しゃべったり、見たり、聞いたり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、
なんでもない事のようだけれども、たくさんの事を共有してきた。
死というのは、そういう物をいっぺんに全部持って行ってしまう。
せめて会話するぐらいできないのか、って想ってもできない。
笑顔も見れなければ声も聞けない。
何にもできない、ただ心の中で想い出すしかできないのだ。
こういう想いをいつまで味わえばいいんだろう。
いや、消えてなくなる事はない。やっぱり背負いながら生きていくしかないんだ。
でも日が経つにつれて辛い想いも和らいでくるのだろうか…
悲しい想いが続くのも参ってくるけれど、日が経って想いが薄れてしまうのもそれもまたすごく寂しい気がする。
いったいどうしたらいいのだろう
どうすれば気持ちが晴れるのか
どこに心を置いておけばいいのかがあまりわからない
自然に身を委ねるしかないんだよね、とりあえずは…
2013年10月27日日曜日
檜洞丸
船ではなくて山の名前
台風一過の今日は西丹沢に行ってみた。
東名の大井松田を降りて30kmほど走り、西丹沢自然教室駐車場に到着。
天気も上々、おにぎり食べて6:30に山行開始。
ゴーラ沢に向かうルートの登山口から入る。
いきなり道がわからない。
少し沢を行ったら入り口を見つけた。
ゴーラ沢にたどり着くが、沢を渡るルートになっている。
だけど、台風のせいで増水してるので渡れない。
仕方ないので登山靴と靴下を脱ぎ、はだしで沢を渡った。
こんなの初めて、冷たい!
沢を渡りひたすら登っていく。
特に難所もなく進むと、上の方は木道がたくさん整備されている。
富士山を背にしながらどんどん登る。
標高1500m近くなっても今日は穏やかで暖かい。
ほとんど人に会うこともなく頂上に着いた。
しばらくすると単独で男性が登って来た。
しばし二人で山の談義を交わした。
とても感じのいい方だった。
こういうちょっとした出会いは一服のいい清涼剤になる。
お約束の頂上でのおにぎりとお茶をいただき、犬越路のルートを行く。
今度は山を正面にしながらの尾根歩き。
一気に視界が開け、高度感もあってすごく爽快♪
このルートは途中スリリングな所もあって、慣れてないと少々恐いかも…
鎖場もあったりしておもしろいけど、ちょっぴり感じたのは登山道を見失いやすいところが多いことかな。あんまりヘラヘラ歩いてると迷いそうだ。
下まで来るとふたたび沢沿いを歩く。
山の水はほんと澄んでいる。
来週はもう11月だけど、緑のカーテンもまだ綺麗だ
と、
なんやかんやと出発した教室まで無事降りてきた。
6時間かけて13kmほど歩いただろうか。
最近感じるのは、足が思うように上がらない。
良くつっかかって転びそうになる。まあオレもいい歳だからな…
でも今日の山はなかなか面白かったよ。
次はどこを歩こうか…
2013年10月12日土曜日
がっかり
前から登ってみたかった八ヶ岳。
天狗岳行きを決めて夜中に出発。
諏訪南ICを降りて、白駒池の登山口を目指した。
途中から濃い霧が発生して、登山口駐車場に来たときは風も強くてとても天候が悪い。
登ってるうちに晴れるだろうと思い身支度してAM6:00ごろに登り始めたがあまり回復する様子もない。
原生林に入ると風も収まるが、高見石にきた頃には霧も風もかなりひどく、木々のしずくが雨のように降り注ぎはじめた。
「降りよう」
そう決めた。
眺望が望めそうにもないし、どのぐらいで天候が回復するかもわからない。
気ままな単独行だから、無理するつもりもない。
原生林ハイキングだけして八ヶ岳を後にした。
中央道に乗り、八ヶ岳PAまで来たころに見上げる八ヶ岳は風は強いがピーカンに晴れ渡っている。
すごく後悔した。
でもしょうがない、自分で諦めたんだから文句は言えまい。
またリベンジしよう、そう思った。
高見石までの原生林はとても綺麗だったけど、ピークを踏めないがっかり感の方が大きかった。
まあ、こんなときもあるわさ…
2013年10月8日火曜日
五十日祭と東山魁夷
先日、宇都宮に帰省した。
オヤジの五十日祭があるのだ。
月日の流れは早い。
オレは時間を作って一日早く帰った。
お袋と少しでもいれればと思ったから。
よくよく考えると、もし今でも社長が生きていたら、オレはこんなに自由にお袋のいる田舎に帰れたのだろうか…
社長、オヤジと立て続けに亡くしてしまったがちょっぴり不思議な因果関係があるような気がしてならない。
法事の前日、お袋と二人で昼飯を食いに出かけ、帰りにドライブがてら宇都宮美術館に寄ることになった。
「東山魁夷をやってるから」とお袋。
「東山魁夷、何それ?」とオレ。
「日本の有名な画家だよ」とお袋。
なんでも川端康成と深く関わっていた人らしい。
パソコン上の写真では何にも伝わらないが、館内を歩いているうちに数々の絵画にどんどん吸い込まれていった。
とても美しい絵だったから…
山や木々を題材にした作品が多かったけど、実際にみる絵の息吹や力強さ、なんとも言えない色彩、山のちょっぴり湿気を帯びてひんやりとした空気感まで伝わってくる。
ある意味自然の風景をも凌駕しているぐらいに綺麗だ。
でもそこには自然を愛して畏敬の念を持ち、変に出しゃばらない謙虚な姿勢もあるようにオレには見えた。
どう表現したらいいかわからない、五感で描いてる感じだろうか…
うちのオヤジの家系は代々絵描きが多いらしい。
オヤジ自身も生前よく油絵を描き、展覧会に出したら英国の女性が是非売ってくれと言ってくるぐらいの腕前があった。
オレはオレで昔から絵や写真を見るのは好きだったし美術の成績は良かった。
誰に強要されたわけでもない。
なんの気なしに行った美術館だったけど、すごくいいものを見させてもらった。
そして日付も変わり、朝は空も少し雨が残っている感じ。
騎西の玉敷神社でオヤジの五十日祭と納骨が行われ、オヤジは千の風になり旅立っていった。
当たり前だがお袋はとても寂しそうだ。
なんせ六十年も連れ添ってきたのだから…
旦那が死ぬと急に元気になる奥さんも多いって聞くけど、オレにはその感覚は良くわからない。
それこそ絆もヘチマもないのではないか。
誰だって永く連れ添った人に逝かれたら、我が身から心臓をえぐられるぐらいに悲しいものだ。
その悲しみだってちょっとやそっとの月日では消えないんだから。
お袋と実家の祭壇を片付けて、オレは東京へと戻った。
あまりほったらかしにも出来ないから、時間を作ってまた里に帰らないとな…
2013年9月19日木曜日
毛無山
18日に予定してた応援仕事がなくなり、一日あきができた。
台風一過で日本列島高気圧が張り出している。
久々に山にいくことに決めた。
こうやって平日に気まぐれで出かけられるのも、自営だから成せることだ。
社長とオヤジを亡くしてからは初めての山行になる。
ランクスに乗り込み、朝4時に部屋を出る。
山はとにかく早立ちに限る。
中央道を河口湖ICまで走った。
2ZZ-GEをちょっぴり回してみたがなかなか面白い。
6000rpmぐらいではっきりとバルブの切り替わりを体感でき、ドタ足のコブラと比べると中古と言えどもランクスはとっても快適。
追い越しをかけてもラクに加速してくれる。
新しいナビもとても使いやすく、目指す毛無山の登山口になんなく到着。
7時少し前に登山スタート。
少しひんやりしていて、長袖を着た。
渓流を横切り、いきなり岩場というかガレた道になる。
30分も歩くと不動の滝が迎えてくれる。
落差100mのある2段の滝だ。
しばし見物。
平日ということもあり、登山者も少なくて静か。
7~8合目あたりまで来ると、富士山の展望台(岩場)があり、先っちょまで行ってしばし見物。
気持ちがいい
頂上直下まで来るとアルプスを望める展望台があり、またまた見物。
南アルプスと八ヶ岳が綺麗だ。
2時間半ぐらいで頂上に到着。標高1964mの毛無山
30分ぐらいのんびりして下山したが、この山はとにかく歩きにくい。
スタートからゴールまでガレた道ばかり。
足を取られやすいし、ちょっと飽きてくる。
ちょうどお昼ごろには山を降りてこれたけど、なんだかくたびれた。
久々に歩いたせいもあるのかな…
単独行していたおじさんと途中ちょっとお話ししたが、「八ヶ岳も縦走しなければ日帰りで行けますよ」と言っていたから、機会があったらぜひぜひ八ヶ岳に行ってみたい。
2013年9月16日月曜日
カローラという車
先日、カローラが納車された。
2003年式、[カローラランクス TRD スポーツ M] というもの。
Mはモデリスタの事らしい。
あいも変わらず中古車ばっかりだけど、どうしても仕事の事を考えると中古車になってしまう。
多少ガサツに扱って傷が付いたりしても腹が立たないから…
この車を選んだ理由は
1, 盆、正月に帰省した時はいつもお袋の乗っているランクスを運転することになるのだけど、 これがまた、使い勝手が良いのなんの。
2, カローラなのに6速MTという、良くも悪しくも不可解なところ。
3, 仕事でもストレスなく使えて、普段乗りもまあまあ楽しめるという点。
こんなところだ。
この車、2ZZ-GEとかいう、なかなかのモーターを積んでいる。
ロータスにも採用されているYAMAHA製だとか…
1800ccのDOHCで可変バルブ搭載。TRDチューンで200ps越え。
タイミングチェーンを使っているところがニクイ。
実際に乗ってみると軽い車重も手伝って、ヒョイヒョイとチョロQのように良く走る。
ただまあ4.6ℓの暴力的なSVTに乗っていたこともあり、パンチのなさ、トルクのなさ、TRDのスポーツマフラーなのにとても静か、といったあたりは比べるのもナンセンスだけど物足りない。
でもそこは日本の大衆車。使い勝手の良さや造りこみはピカ一。
内外装のチリの良さ。見やすいメーター類。右折がとっても楽。クラッチ、シフトともに楽々操作。以外と広い車内と荷室。10万キロ越えとは思えないヘルシーな機関状態。
やはり几帳面で真面目な国民性や日本の風土に合っている造りだ、 当たり前だけど。
ガリ傷だらけのトムスのアルミが付いてるけど、タイヤは車屋が新品にしてくれた。
ナビやバッテリーも新しい。
これから先、どれくらいお世話になるかわからないけど
とりあえずよろしく頼むよ、ランクスちゃん。
2013年8月26日月曜日
オヤジの通夜
24日の土曜は半日で仕事を切り上げ、宇都宮の実家へと向かった。
夕方からのオヤジの通夜に出ねばならないので、高速を飛ばしていった。
実家に寄ってみると、お袋と姉貴と甥っ子たちがまさに今から葬儀場に出発しようとするところだった。
近所にあるさがみ典礼に皆で車で向かった。
典礼の担当者と挨拶を交わして、オヤジのいる待合室に入った。
親戚たちもチラホラと来始めている感じだ。
皆でオヤジの亡がらのところまで行って顔の白布を取り、オヤジと対面した。
お袋はとたんに泣き出してしまった。
先週盆休みの時に会ったばかりなのに… オレはオレでなんだか実感が沸かなかった。
次々と親戚達が到着して、待合室はだんだん賑やかになってきた。
親戚づきあいができなかったオレにとっては、本当に久しぶりに会うおじさんおばさん達の顔は、なんというか一種の感動のような感覚もあった。
皆、年は重ねてもあまり変わっていない。若い頃に会った印象そのままという感じだ。
夕方4時ぐらいから、納棺が始まった。
オヤジの亡がらの周りに立ち、花を添えたり、好きだったドラ焼きやらスケッチブックを入れて、皆一人づつ、お別れの言葉をオヤジにかけた。
お袋は、「おとうさん、おとうさん」と泣きながら呼びかけ、「楽になったんだよね、おとうさん」と顔を撫でながら言葉をかけていた。
オヤジが長患いでお袋もだいぶ苦労をしてきたと思うが、いざ顔を見ると泣いてしまうお袋。
夫婦の愛情は消えてなかったんだなぁと子供ながらに思った。
オヤジが生前、「お袋のことも少し気にかけてあげてくれよ…」とオレに言っていたのを思い出すと、お互い一途に支えあって添い遂げたんだという二人の想いもひしひしと伝わってきた。
夫婦の鏡だなと思った。子供はこういう親の背中を見て育つのだなとも思った。
納棺も終わり、あとはお通夜らしく皆で食べて飲んで故人を偲んだ。
あまり今まで聞いたこともないようなオヤジとお袋のエピソードに耳を傾けながら、オレも食べたり飲んだりした。
通夜が終わって皆実家に戻って一息ついたあと、オレはテーブルでお袋と軽く晩酌を始めた。
あとから姉貴も混ざってきて3人でいろいろ話した。
お袋のこれからの事や、遺産やら家のことやら、雑談やら。
今まであまりこういう場面はなかった。
オレは少し新鮮でもありうれしくもあり、なんだか少しホッとした気分にもなった。
たまには親兄弟で話すのも悪かぁないよね…
2013年8月22日木曜日
さようなら オヤジ
今年はいったいどうしてしまったのか…
22日未明、オレのオヤジが息を引き取った。
先週盆休みに帰って会ったばかりだが、だいぶパーキンソン病も進行していてあまり状態も良くなさそうだった。
おふくろもこの事でストレスが溜まっている感じだったし、オヤジもいろいろと苦しんでいる様子だった。
二人ともちょっと険悪な雰囲気になっていたので、仲に入って少し3人で話し合ったりもした。
オヤジはそのあと珍しく、「足の爪を切ってくれないか」とオレに言ってきた。
手がうまく動かないので切れないらしい。
オレは爪きりを持ってオヤジの足の爪を切ってあげた。
「こんなことさせちゃって悪い…」 オヤジがポツンと言っていたのが印象的だった。
オレは22日の朝は早出して7時前から現場で仕事をしていた。
突然おふくろの携帯から電話が鳴った。
もうその場で何の電話かがわかり、おそるおそる電話に出た。
消防隊員から「お父さんが浴槽で溺れてしまい…」そう言っている裏でおふくろが、泣き叫んで絶叫していた。
電話を変わってもらっておふくろと話しをしたが、ひどく動転していて会話にならない。
少しずつなだめながら話しをした。
すぐ姉貴にも電話した。姉貴は息子たちと一緒に宇都宮に飛んでいったらしい。
おふくろの姉妹たちも行ってくれたようだった。
十数年前から請負い工事をするようになり、あまり自由時間も金もなく、病気の社長にひとり付きっきりだったせいもあり、オレは世間一般の付き合いや行動が取れない人間になっていた。
冠婚葬祭にも出た試しがないし、そんな事が続いているうちに親戚に顔会わせをするのもだんだん気が引けるようになっていた。
今回も例外なく、オレはすぐには帰れない状況だった。
親会社や他の下請けの仲間にも連絡したが、そうそう簡単に代りはいない。逆に手伝ってくれと言われるぐらいに人手が足りていない。
いつもオレは後ろめたい。
でもしょうがない、そういう世界で生きているのだからどうしようもないんです。
たぶんこれからもずっと親不孝のバカ息子のままかもしれないけど、許してくださいね…
オレだって心の友でもある社長を亡くして、いつも独りで泣いて耐えてきたんです。
誰にもすがることはできなかったんだから。
葬式には行くから、オヤジ、堪忍してね…
2013年8月18日日曜日
グッバイ マスタング
5年間連れ添ってきた愛車を手放すことにした。
SN95のマスタングは、V6コンバーとV8コブラ合わせて10年間乗り続けた。
もともと車好きだったウチの社長に背中を押されて買ったV6マスタング。
乗り始めてみたら妙に楽しくて、ついにはコブラグレードを買うにまで至った。
マスタングには今まで乗り継いできた国産車では味わえない楽しい思いをたくさんさせてもらった。
車を整備したりモディファイしたりする喜びを教えてくれたのもこの車だし、友達の輪も広がってたくさんの場所に走りに行ったりした。
でも今年は悲しいことに、一緒に楽しんでくれたり出掛けたりした社長が亡くなり、仕事も独立する形となり、一区切りをつけねばならなくなった。
仕事で使うのも使えないことはないけど、さすがにちと恥ずかしいし使い勝手も良くない。
様々な思い出がたくさん詰まっているので、もう一台ボロい軽自動車でも買って2台持つことも考えたが、さすがに無駄が多すぎる。
2013年はいろいろなものとサヨウナラする形となってしまい心も晴れないままだけど、ちょっとずつ動きを変えていかないと前に進まない。
大手の車の買取屋に頼んで査定してもらい、買い替えならまあまあの値段が付くので決めた。
次の車は仕事でガサツに使っても腹が立たないような、ド中古ポンコツのカローラのハッチバックだ。
ただこのポンコツ、トヨタの2ZZ-GEエンジンを積んでいる6MTのTRDだ。
オールアルミで可変バルブエンジンが付いてるあたりはコブラとおんなじだ。
「羊の皮を被った狼、スリーパー」的な車を選んでしまうあたりは、相変わらずおバカな独身中年丸出しな感じだけど、多少のスパイスがないと退屈だから…
てな訳で、今日の朝は最後のドライブをちょっとして、あとは車内を片付けた。
またいつかアメ車に乗ることがあったとしたら、次は何に乗るかな…
でも一緒に楽しめる仲間がいないと、こういうのもおもしろくないね。
いままでありがとう、マスタング。
次のオーナーさんにまた可愛がってもらえよ
2013年8月8日木曜日
遺品と部屋を整理するということ
社長の住んでいた自宅兼事務所であるワンルームと、機械式駐車場の整理。
最終的にはマンション管理会社から業者を紹介してもらい、処分して空っぽの状態にした。
オレも大事なモノや引き取ってもらえないもの、使えるもの等を人にあげたり、リサイクル屋に売ったり、小さいものは自分で保管したりとあれこれやりながら整理していった。
管理会社も言っていたが、法定相続人のいない人の家財道具は本来勝手には処分できないそうで、血縁のないオレにも片付けする権利も義務も本来はないのだ。
ただ20年も一緒に連れ添った仲間だ。そのまま放置することはオレにはできなかったので、片付け処分することを決めた。
亡くなってから三週間ぐらいはほぼそのままの部屋の状態だったから、整理に部屋に入るたびに涙があふれてきた。
まだあの人のにおいや温もりが部屋に残っていて、今にも「よっ!」とか言いながら出てきそうだったから…
でももう戻ってくることはない。声も聞くことはできない。仕事が終わって帰ってきても一緒になって話すこともできない。オレにも配偶者や子供もいないから、なんというか寂しさが身に染み渡る感じだった。
それでも心が救われるような事もいろいろあった。
近所で親交のあった人や、社長の担当だった介護福祉の人、病院のケースワーカーさん、透析クリニックのスタッフさん。
社長に付き添ってずっと傍にいたオレがショックを受けているのを心配してくれて、いろいろ声を掛けてくれたり、励ましてもらったり、飲みに連れて行ってくれたりしてお世話になった。
人との係わり合いで人間は生きているのだと強く感じた瞬間だった。
「あなたは一人で何年間も社長さんの事を最後までよく看てあげてましたよね、社長さんはほんとに幸せな人です。このことはあなたの人生をきっと豊かにしてくれるはずです」
こんなことまで年配のご夫婦が言ってくれた。うれしかった…
そして8月7日、業者さんが片付けて空っぽになった部屋で正座をして、最後のお別れをした。
「20年間あっという間でしたね、今までありがとう、あなたに逢えて良かった、ケンカも多かったけどとても楽しかった。
腎不全で障害者になっても、足を失ってしまっても、オレはあなたが大好きでしたよ、またどこかで一緒に仕事しましょう、約束ですよ…
さようなら、さようなら…」
2013年8月3日土曜日
ホッとした…
健康診断を受けたクリニックから、プチ肺がん宣告をされた後の数日はホントに憂鬱だった。
開業したてでもう人生を諦めないといけないのか、田舎に帰るしかないのか、年老いた両親にそんな事言えるか!等々、いろいろな思いが頭をよぎった。
そして肺のCTスキャンの当日がやって来た。
宣告したクリニックにはCTスキャンの設備がない為、少し大きめの病院にいく事になった。
紹介状と自分の3年ぶんのレントゲンを抱えて受付にいった。
しかし、こういった命にかかわるような病名を言われてから行く診察というのは不安でたまらない。
医者から何をいわれるのか、一人で治療やら入院の段取りをしなきゃならないのか、と、余計な事ばかり考えてしまい、どうしてもうつむき加減になってしまう。
そしていよいよCTスキャン。
丸いドームに体を突っ込んで、後はまな板の上の魚状態。
しばらくして、診察室からお呼びがかかる。
覚悟を決めて入る。
担当の呼吸器科の先生にご挨拶。なんだかあっけらかんとした顔つきで、
「今日はどうされたんですか?」と先生に聞かれ、
「クリニックから、癌の疑いがあるのでと言われ診察しに来ました」と答える。
すると先生は「これで癌と言われちゃったんですか?」と半ばあきれたような顔で言った。
CTスキャンした画像とレントゲンをオレに見せながら、「どこも異常は見当たりません、全く問題ないですよ」との返事が返ってきた。
オレはなんだかホッとしたような、ガクっと力が抜けたような状態でその言葉を受け入れて噛み締めた。
先生は、「もっと喜んでいいんですよ!」とまで言ってくれた。
「良かった、なんともないんだ」
そう思いながら、
クリニックの先生から受けた「癌です」という一言がすごく腹立たしかった。
早期発見早期治療、疑わしいものは罰せ、という考えもわからなくはないが、たったその一言がどれだけ人間に負担を掛けるのかわかってるんだろうか、プロならもう少しマシな対応があるだろうが!とさえ思った。
紹介状やCTスキャンだってタダではない。身銭を切って払うんだし、行政からもお金が出るのだろう。
人に不安を与えておいて取るものだけはチャッカリ取ってというやり方はどうなんだ?
程度のいい詐欺みたいなものではないか?
そんな事まで考えてしまうような一日だった。
「医者がすべてではない」
これは、亡くなった社長と医者や看護婦のやり取りを見ていて強く感じていた事だ。
最後に決断するのは自分であって、病院ではない。
例え、寿命が縮まったとしても、最後までどういった形で生命を全うするかはその人本人が決める権利を持っているのだ。
2013年7月28日日曜日
オレもやばいのか…
今年六月に毎年恒例の健康診断を受けた。
最初の問診では診断結果は良好でその場で終了。
七月、クリニックから手紙が来ていた。
肺のCTを撮ることをすすめるという内容。ちょっぴり薄い影があるとか…
その場はあんまり気にも止めず、今日循環器系の先生がくるので問診にいった。
「CTの予約を入れますか?」と男の先生。
平日がとても休めれる状況でないので聞いた。
「なにか疑わしい病気でもあるんですか?」
「がんです。」
との返事だった。
なんだかポカンとしてしまった。
社長の死のショックの方が大きくて、別に今日は泣きもしなかった。
しばらく女の子も抱いてないから、今のうちにソープでも行っとこうかな…
なんてバカな考えしか浮かばなかった。
ここ一年、社長の事で悲しみ、苦しみ、お互い最後の最後までやり遂げた感がある。
オレには妻も子供もいない。
だらだら長生きするよりはいいかな、でも両親には悪いな、仕事をどうしよう、
いろいろ頭をよぎったけど、まずはCTを受けてちゃんと調べないとなにもわからない。
しかしこれでガン宣告されたら、笑っちゃうぐらいの不幸な人生を歩んでいるな、オレは…
2013年7月26日金曜日
悲しみの独立開業
社長が逝き、火葬を終えてどうにか供養できる形ができて初七日が過ぎた。
あの人がいなくなってからもう何年も経っているような、そんな気がしてならない。
体が痺れて痙攣するような悲しみが何回か襲ってきたけど、最近は少し落ち着いている。
近所で親交のあった方たちが火葬に来てくれたり、社長の友達だった女性歯科医師の方が飲みに連れて行ってくれたり意外な人からのやさしさを噛み締める機会があり、かなり心が救われた。
仕事の方は元請、行政書士、顧問税理士さんと相談した上で、屋号のみ引き継いで自分が独立開業することになった。
社長の会社は実質的には廃業、同名の個人会社の一からのスタートとなる。
客先の元請の担当営業は昔からの付き合いだが、代表が亡くなって変に手のひらを返してこないか少し心配ではあるが、一応今月の支払い通知もウチの方に来たので、請負工事の仕事はなんとかなるかな、先はわからないけど…
少し怖いのは、今までにないようなお金が直接ウチの口座に入金されるので、来年どんだけ税金が来るのかという事だ。
でも今回の社長の死は、少しオレの人生観が変わってしまうぐらい、悲しく寂しい今でも受け入れ難い出来事だった。
あれだけの病気と合併症と足の切断があったにもかかわらず、あの人はいつも健気に子供みたいに抱負を語っていた。死ぬのも辛いが、生きるのももっと辛い、そんな追い込まれた状態ではあったけれど、オレと一緒になってああしようこうしようと話しをしていた。
オレが車椅子を転がして散歩に連れて行ってあげるといつもすごくと喜んでくれた。
ほんと、子供を看るような感じでオレはあの人に接していたかもしれない。かけがえのない人を失ったという寂しさと喪失感がとても大きい。
あの人とまた出掛けたい、話しがしたいと思っても、どうする事もできなくなってしまった…
時間がクスリ、とはよく言ったものだが、どれぐらいの時間が経てばオレの気持ちは救われるのだろうか。
そう、一つだけあの人に聞けるとしたら、このまま東京で供養してあげるのがいいか、それとも両親のお骨のある場所を探してそこに一緒にしてあげるのがいいか、という事だろうか…
オレはできれば東京で面倒を見てあげたいし、このまま供養してあげたいと思っているよ。
あなたはなんにも言わずに逝ってしまったから…
どっちがいい?社長…
2013年7月17日水曜日
さようなら 社長
7月17日未明、社長が息を引き取った。
前日から様子がおかしく、朝心配で見にいったら息をしてない。
119番した。
心臓マッサージをした。
まだ体にはぬくもりがある。
救急隊が来て蘇生措置をするがダメ。
行き着けの病院に搬送されて、死亡が確認された。
覚悟はしていたけど、かけがえのない相方を失ってしまった。
逢いたいけどもう逢えない。
またバカ話しをして笑いたいけどもう笑えない。
車椅子で散歩に連れて行ってあげたいけどあなたはもういない。
ほんとにいなくなってしまったんですね…
オレはとても辛くて悲しいです。
できることならあなたのもとに逢いにいきたい。
でもそれもできないでしょう…
オレはこれから何を張り合いにして生きたらいいの?
ひとりきりで稼いでいたってつまらない…
もっとあなたとワーワーしていたかったです。
またどこかで逢うことができたら、必ず一緒に仕事しましょう、
約束ですよ…
前日から様子がおかしく、朝心配で見にいったら息をしてない。
119番した。
心臓マッサージをした。
まだ体にはぬくもりがある。
救急隊が来て蘇生措置をするがダメ。
行き着けの病院に搬送されて、死亡が確認された。
覚悟はしていたけど、かけがえのない相方を失ってしまった。
逢いたいけどもう逢えない。
またバカ話しをして笑いたいけどもう笑えない。
車椅子で散歩に連れて行ってあげたいけどあなたはもういない。
ほんとにいなくなってしまったんですね…
オレはとても辛くて悲しいです。
できることならあなたのもとに逢いにいきたい。
でもそれもできないでしょう…
オレはこれから何を張り合いにして生きたらいいの?
ひとりきりで稼いでいたってつまらない…
もっとあなたとワーワーしていたかったです。
またどこかで逢うことができたら、必ず一緒に仕事しましょう、
約束ですよ…
2013年7月15日月曜日
病気との闘い 9
7月10日の早朝、社長から電話があり「具合が悪い、もうダメかもしれん…」と息も絶え絶えにオレに喋ってきた。
オレはすぐさま社長のとこに駆けつけ、ベッドに横たわっている社長に話しかけた。
半ば意識が朦朧としていて、あまり会話にならない。
オレは迷わず救急車を呼んだ。
この人に関わってからというもの、今まで何回救急車を呼んだか忘れるぐらい頻繁に119番してきた。
救急隊が駆けつけて、社長は吉祥寺のかかり付けの病院に運ばれて行った。
オレは現場を休めない状況だったのでそのまま仕事に行ったが、昼間に担当の介護福祉士の人から電話があり、「社長は腸炎だとの事ですよ」と言っていた。
腸炎とはいっても、他に合併症でワンサカと具合の悪いところがあるのだから、なんだかオレにはあんまりピンとこない。
腸炎うんぬんよりも、足の壊疽の状態や体全体の事の方がオレは心配だった。
去年や一昨年の事を思えば、社長は自分一人でセニアカーを運転し透析に通い、身のまわりの自分の事はすべてできていたし、一緒に車で出かけたり飯を食べに行ったりもしていたのだ。
それが今年になってから当然ではあるけど何もできなくなってしまった。
足を失い、自分で出かけることができなくなってしまった事が一番ショックなことだと思うけど、それよりもなんだかわからないけど、とにかく状態が悪い。
会話もままならないような日もあるし、オレが見舞いなんかに行っても寝込んでいて起きれないこともしばしば…
足を失っただけでなく、体の調子が全体的に落ちてしまい、精神的にも相当ダメージがあるように見える。
このままでは寝たきりになってしまうんではないかという不安もあった。
それでも社長はまた半ば無理やりに退院の日取りを決めて、自宅に戻る段取りをし始めた。
退院前日に社長を見舞ったけれども、ほんとに退院して大丈夫なのだろうか?という様相だった。
2013年7月5日金曜日
病気との闘い 8
社長が退院してから、自宅兼事務所でもあるワンルームの部屋の模様がえを二人であーだこーだと言いながらやりはじめた。
古い書類やガラクタを捨て、重々しいサイドボードを解体し、通販で仕入れた収納をオレがガタガタと組み立てた。
社長はもっぱら、「部屋をあーしてこーして、こうやって」と、想像しながら構想を練る役目。
レイアウトしたり、物を小詰めてキレイに収納するとかいうのは昔からこの人はとても上手だった。
いい頭の運動や気晴らしにもなっているみたいだ。
オレはオレで日曜返上で毎週作業していたのでさすがにストレスが溜まり、良く社長と口ゲンカになった。その場はとても重苦しい雰囲気になったが、お互いそんなに引きずることもなく、毎週日曜には懲りずに部屋を作った。
そんなことを繰り返しているうちに、社長は一人でベッドから電動車椅子に乗り込み、部屋を動いてちょっとした整理ぐらいできるようになっていた。
片足がなくて、傷の状態もあまり良くないのに、いつも社長はへんなところで根性を出し、周りをびっくりさせていた。
でも、そんなに元気な素振りを見せたかと思うと、次の日は辛そうにベッドに横たわり、「足が痛い、指が動かない、目が見えない」といってしょげてしまう。体調や気分が安定しないようだ。
子供みたいな素振りで落ち込んでいる社長を見ているとなんだかオレもとても心配になり、部屋に帰って床に就いても不安で目がさめてしまうこともよくあった。
2013年6月26日水曜日
病気との闘い 7
退院して自宅にもどると簡単には言っても、部屋での日常生活は以前のようにはいかない。
透析はヘルパーさんにお願いして車椅子での送り迎え。
オレはオレで仕事帰りに必ず社長んとこに寄り、買い物と2,3日に一回の洗濯はするようになった。
細かく書くとキリがないが基本的にベッドから一人で移動するのは困難で、購入した椅子型のトイレをベッドのすぐ脇において、手を使ってお尻をスライドさせながらの移動ができるぐらい。
ほとんどベッドの上が自分の生活の場だ。
でも入院していた時とは違い自分の部屋だから、たいぶ居心地はいいのだろう。
夜はオレもいるから一緒にほか弁食べたり、しゃべったり、テレビを見たりと、ささやかではあるが「なんとなく普通に流れる時間」をお互い味わえた。
でもやはり以前と比べるとかなり辛そうだ。
静養していれば体が良くなるという容態ではなく、「今日も一日どうにか無事過ごせた、明日は大丈夫だろうか…」という事の繰り返し。
社長自身、「死、自殺」というキーワードにも相当敏感だったと思う。
オレも社長の辛そうな表情を見ているのはとても悲しかった。それと、いつ社長を失うのかという恐怖心もあって、仕事の最中や電車の中、寝床についてから、いろんななんでもない時に涙が溢れてきて止まらなかった。
よく自殺の原因で、「配偶者や親しい人との死別」と言われる事があるが、それがなんとなくわかる精神状態になったりもして、オレもおかしくなりそうだった。般若心経の本を買ったりもした。
ただ自分自身なんとなく言えるのは、「辛くても仕事は続けた方がいい…」という事だろうか。
仕事の最中や同業の仲間といる時は多少は気が紛れるからだ。
でもまだ実際に死別した訳ではないから、その事を考えるとやはり気が重い。
果たしてオレは普通でいられるのか、そんな不安が常にやってきた。
2013年6月23日日曜日
夏にいたる
2013年6月22日土曜日
歩きたい
一人で登るなら、ロープウェイやケーブルカーのない山がいいと思う。
アルプスで言えば、
南アルプスがいいな。
あまり人で渋滞してしまうと、感じ取れるものも半減してしまう。
富士山が世界遺産に登録されたとか…
それはどういう意味なのだろう…
山に名山も駄山もないと思うのだけど…
2013年6月19日水曜日
病気との闘い 6
社長の現存している左足の状態が悪いのもオレはなんとなく前から感じてはいたけど、やはり実際に話しを聞くと愕然としてしまう。
その日の夜にまた病院に見舞いに行ったが、右足を失ってから社長の様子も少しずつ変化してきている。
交通事故で足を切断するのと違い、糖尿のそれは次元が違う。
足を切断したからといって元気になるわけではないのだ。体の調子は全体的に悪くて傷の治りもとても遅い、目の網膜症も進行してきてうんと見えにくくなる。
次から次に襲ってくる合併症と闘い、常に怯えているような状態になる。
今までに見たことも無いような落ち込み方もするようになり、話しの内容も少し認知症なのか?と思えるような場面も出てきている。 いや、認知症なんて言葉を軽々しく使うのはあんまりだろう… やっぱり相当な精神的ショックを受けているのだと思う。
そんな中で社長は腹をくくったらしい。
「もう足は切らない、もう少ししたら病院を出る」
こうオレに言ったのだ。
担当の医者や婦長さん、介護福祉士等のほとんどは「足を切らないと寿命が縮まる、早死にする」
といったほとんど脅しとも取れるような言い方をする。
オレも内心は医者の言うことが正しいのなら両足を切るのもやむを得ないのか、と思ったりもしたが、トカゲのしっぽを切るのとは訳が違うんだ。
ついこのあいだ、とても痛い思いをして右足を失ったばかり。心も体の傷もまったく癒えないうちから、今度は左足を切るだって…
「バカ言うな、オレの仲間をそんなに切り刻まないでくれ!」そんな気持ちの方が数倍大きかった。
そして右足の切断手術をしてから約二ヶ月のち、社長は半ば強引とも言えるようなやり方で退院してしまった、術後の経過は全くもって悪い状態だったけど…
2013年6月16日日曜日
病気との闘い 5
手術を終えてから数日のち、社長は吉祥寺のかかりつけの一般病院へと移った。
大部屋ならそんなに金はかからないが、個室に入りたがっている。
腎不全になってから今まで数多くの入退院を繰り返して来たが、わがままでええかっこしの社長はいつも個室だった。
本来なら血縁者が身のまわりの世話を焼くが、それはいつもオレの役だ。洗濯や買い物、あとは社長の話し相手や愚痴の聞き役といったところか…
オレも仕事を終えてから夜に見舞いに行き、休日は午後ぐらいから行くようにしていたので、あまりゆっくり休む時間がなかった。
オレ自身、(ストレスが溜まる)という言葉がきらいだった。ストレスなんてあって当たり前だろうと思っていたから。でもさすがに心も体もしんどくて、良く口ゲンカをした。
病人相手に声を荒げて「オレはホントに嫌な奴だな」と何度も自己嫌悪に陥ったが、ケンカしてしょんぼりしている社長を見ていると「仲直りしなきゃ…」という気持ちになって謝った。
それは社長自身も同じ気持ちのようで、「オレも悪かった、ゴメンな」と言ってきた。
なんというか、ケンカで友情を暖めあうという感じで、かえって絆が深まっていくような状態だ。
ケンカをするとお互い本音でぶつかるので、逆に相手の気持ちがわかるのだ。
そんな事を何回か繰り返していた頃、またショッキングな事になってしまった。
ある日、昼間に現場で仕事をしていると携帯が鳴り、社長からの電話だった。
「左足も切らないとダメだと医者にいわれた、病院出て家に帰るから迎えに来てくれ」
そうオレに言った。
オレは力が抜けてしまった。
2013年6月11日火曜日
病気との闘い 4
手術が終わって2日目ぐらいに社長は集中治療室を出て、準集中治療室のような病棟へと移った。
この頃から病院のケースワーカーを介して、介護福祉士や地域包括支援センターの担当者と会い、役所に行っていろいろな手続きをしていった。
社長が透析を導入した頃にも役所の手続きは随分とオレがしに行ったが、今回は更に障害者手帳の項目が増えたり、「まる障」と言われる新たな制度の手続きをしたり、特定疾病手当てが多少手厚い種類のモノに移行したりと、目まぐるしかった。
介護福祉士の方に、「あなたは仕事してこんな手続きもして良くやってますね、大変でしょう」と言われた。
確かにオレは自分でもなんだか良くわからないぐらい動いた。辛い気持ちにもなるがでもそれは昔からだ。他の連中は嫌気がさして逃げていったけれど、体の不自由な仲間を差し置いて逃げるという事だけはできなかった。人が良すぎるのかバカなのか、とにかく他人にはあまり理解されない行動のようだ。
でも一番つらいのはやはり足を失った本人だろう、これからは一人で立ち上がることも、歩くこともできない。オレにはとても想像できない精神状態であるのだから…
2013年6月10日月曜日
病気との闘い 3
社長が手術室に行き、2時間が経過した。だいたいこのぐらいの時間で手術が終わると聞いていたが、更に1時間、2時間と経っても待合室には何の連絡も入らない。
不安になったオレは自分から受付に聞いた。
しばらくして連絡がはいった。
「術後の痛みがとても激しいらしく、今日は面会できる状態ではないのでお帰り下さい」と言われた。
次の日、オレは仕事を終えてから病院に出向いていった。
集中治療室に入ってから担当の看護婦に聞いた。「大丈夫なんですか?話しはできるんでしょうか」
看護婦は「平気ですよ」と、さらりと言った。
オレは内心、会うのがとても怖かった。
そして奥にある社長の寝ているベッドに案内された。
社長の体には心電図と心拍数を計るものが付けられ、透析をしなければいけないので左腕のシャントに管を刺され人工透析をやり、鼻からは酸素吸入、切断された右足には負圧で血液を採るなんだか袋のようなものが付いている。
おおよそ生きている人間の姿とは言いがたい、いったい何本の管や線が体に巻きついているのだ?
社長は横たわり、腹を動かし一生懸命に呼吸をしている。そして何度見ても今まであった右足が膝下からなくなっている…
そんな壮絶な光景を見て、オレはその場で泣き崩れてしまった。
傍らで社長の手を握りしめながら泣いていると、社長は小さな声で「泣く奴があるか…。 足は大事にせえよ…」とオレにつぶやいたのだ。
オレはますます涙が止まらなかった。
現在、社長が足を切断してから三ヶ月ぐらいの日にちが経っているが、とにかく今でもオレ自身この日のショックがなかなか和らがず、思い出しては涙があふれてしまう。パソコンをたたいていてもだ…。
そして社長自身にこの日の事を聞くと、オレに会った事はまるで覚えていないと言う。
2013年6月8日土曜日
基礎体温
とは言っても車のハナシだ。
ウチのマスタングの水温計は特に数字もなくて、エンジンが暖まるとだいたい真ん中辺りを指してあとはほとんど変化を読み取れない。
まあ市販車のほとんどはこんな感じだろうけど…
「人間歳をとると血管が細くなり、必然的に血圧も高めになる」的な考えは、車にも多少あてはまるのではないかと思っているけど、特にここ最近の日本の夏の高温多湿の亜熱帯ぶりで、車の水温をもう少し気に掛けてあげようかなという事で、機械式の水温計を今年に入り導入してみた。
Sunpro製のとてもシンプルなものだけど、これを付けることによって車の仕組みが少しまた理解できるようになった。
梅雨時の今ぐらいにエアコンoffで走っていると、少し街なかの渋滞にはまればファンが廻りだす。
この車のサーモスタットの全開温度は212゜F
水温計を見ているとだいたい210゜F前後でファンが廻りだすことがわかる。
要はこの辺以上になると水温が少し高いから、サーモを開けてファンも廻してクーラントを冷やしましょう、という意図が理解できる。
ファンが廻り、水温が190゜Fぐらいになるとファンは止まる。
また同じようにエアコンをonにすると、今度はファンが常時廻るようになるので(コンデンサを冷やす為?)、水温は180゜Fぐらいで安定している。
夏には積極的にエアコンをつけた方が、電装系には負担が掛かるがエンジンには良いのかもしれない。それかまた、任意でオンオフできるファンスイッチでもあればいいのかな、面倒だけれども…
でもこういった機械工学もおそらく自然や生き物の摂理からヒントを得たのではないだろうか。
人は暑いと汗をかく。誰に言われるわけでもない、自律神経が指令を出して汗がでる。
汗をかいたところで、風とおしの良い場所にいく(渋滞を抜けて走り出す)か団扇であおぎ(電動ファンが廻る)でもすれば、汗が体温を奪って涼しく感じる。クールダウンしたところでまた一仕事しようかという気も起きてくるだろう。
車も一緒だ。
マスタング メンテ
先月から合間を見て、唯一の息抜きである愛車の整備をまたチョコチョコやりだした。
1997年型の車なので、パワーやエクステリアの追求というよりも、常に快調に走って欲しいといういたわりの想いで車に乗っている。
もっぱら自分での交換作業が多いが、走り屋ではないからシャコタンやら直管やらドリフトやらヒールアンドなんとかとかにはまるで興味なし。そんなのは公道でやるべきではないだろう。
以前は同型の車を所有するオーナーさん達と、一緒に走ったり遊んだり車を弄ったりしていたが、皆さんマスタングを降りてしまい、オレも自由時間が極端に少なくなってしまったのをきっかけに独りで楽しんでいる。
先月はクーラントを抜いて、ウォーターポンプとサーモスタット、ラジエターキャップを換えた。
毎年の日本の酷暑に耐えてもらう為の早めの交換。
はずしたウォポンやサーモやOリングを見ても、特に回転の渋さもないし、Oリングのゴムはヒビも切れもない。
この90年代のフォード車は自分が思っていた以上にタフに出来ていて、機関系は国産と比べてもなんの遜色もない、むしろそれ以上に頑強と思う。
新しいパーツを取り付けて、クーラントのエア抜きだけは念入りにやった。
サーモが開くと一気に入っていくので、ホースを揉みながら何度もエア抜きをし、だいたい抜いた分だけ入ったところで、軽く試乗。
翌日になると少し水位が下がり、補充してまた試乗を何回か繰り返してみた。
一月ぐらい経ったがクーラントの漏れもなく、水位や水温も安定している。
大丈夫なようだ。
そしてお次はフューエルプレッシャーレギュレータ。
まれにコールドスタート時に掛かりが悪くて、カブったような症状もでるので、これまた趣味的に交換。プラグやプラグワイヤー、O2センサは新しいのでこいつに着目。
燃ポンのFuseをはずしてクランキングしてガス抜きしてからはずした。
本来なら燃圧ゲージで計って確かめたいところだけど、どこにどうつけるかよくわからないのでパス。走り自体にはなんの変化もない。
まあ、予防的にやってる整備も多いのでパーツの無駄といえば無駄かもしれないが、15年前の車だから新調してバチがあたる事もないだろう。
DIYが好きなのもあるんで…
2013年6月6日木曜日
病気との闘い 2
社長の手術の日(足を切断する)、朝9時に杏林大学病院の救急の窓口に一緒にマスタングで行った。
救急扱いなので、何時から手術なのかはわからない。
レントゲンを撮ってから、最上階の集中治療室へ運ばれた。
オレはすこししてから集中治療室に付き添いで案内されたが、マスクして滅菌した簡易の服を着させられて分厚いドアから入っていったが、周りにある医療機器やベッドで寝ている患者さんを見て、 “ただごとではない雰囲気” を強く感じた。とにかく普通の病棟ではない様相は恐かった。
社長の寝ているいるスペースに案内されて、傍らに腰掛けた。
1時間、2時間と過ぎてもお呼びは掛からない。
「帰りたい」
そう社長は何度となくつぶやいていた。
オレは横に一緒にいながら何を二人でしゃべっていたかはよく覚えていないが、なんだか社長は恐がる様子もなく、少しポカンとした感じでベッドで横になっていた。
そして夕方になってとうとう手術の時がやってきた。
ベッドから車椅子へ載せられて、社長は手術室に向かう廊下を看護婦さんに押されていった。
そのときの社長のちいさな後ろ姿を見て、オレはすごく悲しかった。
「勝手に連れていかないでくれよ」
そう想っていた。
救急扱いなので、何時から手術なのかはわからない。
レントゲンを撮ってから、最上階の集中治療室へ運ばれた。
オレはすこししてから集中治療室に付き添いで案内されたが、マスクして滅菌した簡易の服を着させられて分厚いドアから入っていったが、周りにある医療機器やベッドで寝ている患者さんを見て、 “ただごとではない雰囲気” を強く感じた。とにかく普通の病棟ではない様相は恐かった。
社長の寝ているいるスペースに案内されて、傍らに腰掛けた。
1時間、2時間と過ぎてもお呼びは掛からない。
「帰りたい」
そう社長は何度となくつぶやいていた。
オレは横に一緒にいながら何を二人でしゃべっていたかはよく覚えていないが、なんだか社長は恐がる様子もなく、少しポカンとした感じでベッドで横になっていた。
そして夕方になってとうとう手術の時がやってきた。
ベッドから車椅子へ載せられて、社長は手術室に向かう廊下を看護婦さんに押されていった。
そのときの社長のちいさな後ろ姿を見て、オレはすごく悲しかった。
「勝手に連れていかないでくれよ」
そう想っていた。
2013年6月3日月曜日
病気との闘い 1
いままで46年生きてきて、自分は幸いにも病気で苦労をしたという経験がない。まあ足腰はそれなりにガタはきているけど、風邪もそれほどひかないし入院の経験もない。
永遠の独身状態で、体の栄養バランスはそれこそ最悪であると思うんだけど…
2013年を迎えてからというもの、自分の病気ではなく他人様の病気の事でおおいに苦しむ機会が増えた。
ウチの社長が糖尿病壊疽による右足切断を余儀なくされたからだ。
社長とは言っても今や自分と社長しかいない小さな工事屋。
社長には親兄弟や嫁さんもなく身寄りがない、単身広島から東京に来て逞しく生きる男だった。
15年前に社長が腎不全で倒れて透析導入になって、当時いた従業員は一人去り二人去りと、とうとう自分と社長だけになってしまった。
社長はもともと現場に出れなかったから、オレ独りで現場をこなし、何年も何年も大のオトナふたりぶんの工事をこなしてきた。
苦しい人生ではあったけれども、それでなんとか会社は機能していたし、社長も一人で何年も透析に通って頑張っていた。
そんなことをお互い何年も続けてこれたのは、簡単に言えば男同士の絆みたいなものが深かったからかもしれない。家族のような兄弟のような親友のような… そんな間柄だった。
でもそれは今年に入りいきなりやって来た。
「右足は切断です」
医者からの突然の宣告だった。
キーパーソン状態だったオレも社長と一緒にその宣告を受けた。
オレは本人よりも大きく泣いてしまった。
今まで酸いも甘いも一緒に分かちあってやってきた仲間(社長)の足を切られてしまうというのは、本当にショックだった。
永遠の独身状態で、体の栄養バランスはそれこそ最悪であると思うんだけど…
2013年を迎えてからというもの、自分の病気ではなく他人様の病気の事でおおいに苦しむ機会が増えた。
ウチの社長が糖尿病壊疽による右足切断を余儀なくされたからだ。
社長とは言っても今や自分と社長しかいない小さな工事屋。
社長には親兄弟や嫁さんもなく身寄りがない、単身広島から東京に来て逞しく生きる男だった。
15年前に社長が腎不全で倒れて透析導入になって、当時いた従業員は一人去り二人去りと、とうとう自分と社長だけになってしまった。
社長はもともと現場に出れなかったから、オレ独りで現場をこなし、何年も何年も大のオトナふたりぶんの工事をこなしてきた。
苦しい人生ではあったけれども、それでなんとか会社は機能していたし、社長も一人で何年も透析に通って頑張っていた。
そんなことをお互い何年も続けてこれたのは、簡単に言えば男同士の絆みたいなものが深かったからかもしれない。家族のような兄弟のような親友のような… そんな間柄だった。
でもそれは今年に入りいきなりやって来た。
「右足は切断です」
医者からの突然の宣告だった。
キーパーソン状態だったオレも社長と一緒にその宣告を受けた。
オレは本人よりも大きく泣いてしまった。
今まで酸いも甘いも一緒に分かちあってやってきた仲間(社長)の足を切られてしまうというのは、本当にショックだった。
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