2015年5月24日日曜日

山が教えてくれたこと




新聞を読んでいたら、若い頃にエベレストにアタックして凍傷で手の指を10本失った方の話しが出ていた。


山なんぞに興味のない人からしたら、「なぜいちいちつらい目に遭いにいくのか」と思うに違いないような話しだ。
でもその方はこう書いている。「山には厳しさと優しさがあり、自立心を養ってくれる」
自分も「うんうん」と、うなずきながら読んだ。


今まで4,5年かけて単独行でいろんな山に登ってきたけど、特に最初の頃に日帰り強行で登った北岳は今でも想い出が深い。
自分の体力や足腰と相談しながら計画を練り、真っ暗な林道を登山口に向けて車で走っていく感覚は期待と不安が交錯してすごくドキドキしたものだ。
登山口まで来れば、周りの澄んだ空気と豊かな自然が身を包んで不安を取り払ってくれるし、雲のあいまから見える、遠く高く立つ北岳の姿はどこまでも神々しくて、その姿が更に自分を奮い立たせてくれた。

上りの道中はそれこそ、ほんの少しの飴とたくさんの鞭、の世界。
ただひたすらに何時間も登り続けて、心臓はフルに稼動し、息も絶え絶え、でも登ってゆく。
頂にだんだんと近づき一息ついて天を見上げれば、下界と明らかに違う蒼さの空。陽の光も刺すように強い。周りを取り囲むアルプスの山々の姿も気高くて綺麗だ。
そういえば冷や汗も出てくる。吐き気もしてくるし、クソも出そう。穴という穴から身体のモノが出そう。これが酸欠の症状なのか。

人は元来シンプルだ。
山に登り続ければ、心拍数は一気に上がる。別に自分で上げている訳じゃない、身体が酸素を欲しているんだ。「酸素が足りないぞ、息をたくさんして、心臓をもっと動かさないと血がめぐらないよ」と…
なんぼ自分を好きになろうが嫌いになろうが辛くて死にたくなろうが、自分の身体は健気にひたすら生きようとするものだ、そう教えてくれる。

そんな事を味わっていきながらたどり着くピークでの景色はまた別世界だ。
達成感と心地よい疲労と大パノラマのご褒美は他にはない。


冒頭で書いように、「いちいちつらい目に遭いに行くようなもの」
山に対してそう思う人って多いんだろうか。
あれもこれも満たされて人並みに生きる事って、ある意味なんの思想も哲学もなしで生きていけることの裏返しのようにオレには映って見えてしまうけど…




 

2015年5月10日日曜日


暑くもなく寒くもなく、
梅雨入り前のカラッとした陽気。

何をするのも自然と気分が軽くなる季節だ。

以前はあまり気にも留めなかったが、身のまわりの木々の緑がひときわ映えて見えるようになった。


光を求め一心に伸びて新緑する木々の葉は、理屈抜きで綺麗だから…






人に限らずとも、生きとし生けるものは最後に大地へ還る。

精霊たちの眠る大地に根を張って、ただひたすら健気に黙々と、人に注目されようがされまいが、

何百年も木々は生きぬいていくんだから、

綺麗でない理由なんてどこにもない。