2013年6月26日水曜日

病気との闘い 7



退院して自宅にもどると簡単には言っても、部屋での日常生活は以前のようにはいかない。
透析はヘルパーさんにお願いして車椅子での送り迎え。
オレはオレで仕事帰りに必ず社長んとこに寄り、買い物と2,3日に一回の洗濯はするようになった。

細かく書くとキリがないが基本的にベッドから一人で移動するのは困難で、購入した椅子型のトイレをベッドのすぐ脇において、手を使ってお尻をスライドさせながらの移動ができるぐらい。
ほとんどベッドの上が自分の生活の場だ。
でも入院していた時とは違い自分の部屋だから、たいぶ居心地はいいのだろう。
夜はオレもいるから一緒にほか弁食べたり、しゃべったり、テレビを見たりと、ささやかではあるが「なんとなく普通に流れる時間」をお互い味わえた。

でもやはり以前と比べるとかなり辛そうだ。
静養していれば体が良くなるという容態ではなく、「今日も一日どうにか無事過ごせた、明日は大丈夫だろうか…」という事の繰り返し。
社長自身、「死、自殺」というキーワードにも相当敏感だったと思う。
オレも社長の辛そうな表情を見ているのはとても悲しかった。それと、いつ社長を失うのかという恐怖心もあって、仕事の最中や電車の中、寝床についてから、いろんななんでもない時に涙が溢れてきて止まらなかった。
よく自殺の原因で、「配偶者や親しい人との死別」と言われる事があるが、それがなんとなくわかる精神状態になったりもして、オレもおかしくなりそうだった。般若心経の本を買ったりもした。
ただ自分自身なんとなく言えるのは、「辛くても仕事は続けた方がいい…」という事だろうか。
仕事の最中や同業の仲間といる時は多少は気が紛れるからだ。
でもまだ実際に死別した訳ではないから、その事を考えるとやはり気が重い。
果たしてオレは普通でいられるのか、そんな不安が常にやってきた。







2013年6月23日日曜日

夏にいたる

 


久しぶりに一眼レフをひっぱりだし、今日の朝は少し走ってみた。

夏至ともなると朝の4時前には空は白みはじめてくる。








 















 
 
 
 
大きな橋を2つわたり、6時すぎには帰ってこれた。
 
平日は大型車両や商用車で慌しいけど、
 
日曜早朝の東京の顔はむかしっから大好きだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年6月22日土曜日

歩きたい

 
 
一人で登るなら、ロープウェイやケーブルカーのない山がいいと思う。
アルプスで言えば、
南アルプスがいいな。
 
あまり人で渋滞してしまうと、感じ取れるものも半減してしまう。
 
                                                                        
 
 
 
 
 
 
富士山が世界遺産に登録されたとか…
 
それはどういう意味なのだろう…
 
山に名山も駄山もないと思うのだけど…
 
 

2013年6月19日水曜日

病気との闘い 6



社長の現存している左足の状態が悪いのもオレはなんとなく前から感じてはいたけど、やはり実際に話しを聞くと愕然としてしまう。
その日の夜にまた病院に見舞いに行ったが、右足を失ってから社長の様子も少しずつ変化してきている。
交通事故で足を切断するのと違い、糖尿のそれは次元が違う。
足を切断したからといって元気になるわけではないのだ。体の調子は全体的に悪くて傷の治りもとても遅い、目の網膜症も進行してきてうんと見えにくくなる。
次から次に襲ってくる合併症と闘い、常に怯えているような状態になる。
今までに見たことも無いような落ち込み方もするようになり、話しの内容も少し認知症なのか?と思えるような場面も出てきている。 いや、認知症なんて言葉を軽々しく使うのはあんまりだろう… やっぱり相当な精神的ショックを受けているのだと思う。

そんな中で社長は腹をくくったらしい。
「もう足は切らない、もう少ししたら病院を出る」
こうオレに言ったのだ。

担当の医者や婦長さん、介護福祉士等のほとんどは「足を切らないと寿命が縮まる、早死にする」
といったほとんど脅しとも取れるような言い方をする。
オレも内心は医者の言うことが正しいのなら両足を切るのもやむを得ないのか、と思ったりもしたが、トカゲのしっぽを切るのとは訳が違うんだ。
ついこのあいだ、とても痛い思いをして右足を失ったばかり。心も体の傷もまったく癒えないうちから、今度は左足を切るだって…
「バカ言うな、オレの仲間をそんなに切り刻まないでくれ!」そんな気持ちの方が数倍大きかった。

そして右足の切断手術をしてから約二ヶ月のち、社長は半ば強引とも言えるようなやり方で退院してしまった、術後の経過は全くもって悪い状態だったけど…

2013年6月16日日曜日

病気との闘い 5



手術を終えてから数日のち、社長は吉祥寺のかかりつけの一般病院へと移った。
大部屋ならそんなに金はかからないが、個室に入りたがっている。
腎不全になってから今まで数多くの入退院を繰り返して来たが、わがままでええかっこしの社長はいつも個室だった。
本来なら血縁者が身のまわりの世話を焼くが、それはいつもオレの役だ。洗濯や買い物、あとは社長の話し相手や愚痴の聞き役といったところか…
オレも仕事を終えてから夜に見舞いに行き、休日は午後ぐらいから行くようにしていたので、あまりゆっくり休む時間がなかった。
オレ自身、(ストレスが溜まる)という言葉がきらいだった。ストレスなんてあって当たり前だろうと思っていたから。でもさすがに心も体もしんどくて、良く口ゲンカをした。
病人相手に声を荒げて「オレはホントに嫌な奴だな」と何度も自己嫌悪に陥ったが、ケンカしてしょんぼりしている社長を見ていると「仲直りしなきゃ…」という気持ちになって謝った。
それは社長自身も同じ気持ちのようで、「オレも悪かった、ゴメンな」と言ってきた。
なんというか、ケンカで友情を暖めあうという感じで、かえって絆が深まっていくような状態だ。
ケンカをするとお互い本音でぶつかるので、逆に相手の気持ちがわかるのだ。

そんな事を何回か繰り返していた頃、またショッキングな事になってしまった。
ある日、昼間に現場で仕事をしていると携帯が鳴り、社長からの電話だった。
「左足も切らないとダメだと医者にいわれた、病院出て家に帰るから迎えに来てくれ」
そうオレに言った。
オレは力が抜けてしまった。

2013年6月11日火曜日

病気との闘い 4


手術が終わって2日目ぐらいに社長は集中治療室を出て、準集中治療室のような病棟へと移った。
この頃から病院のケースワーカーを介して、介護福祉士や地域包括支援センターの担当者と会い、役所に行っていろいろな手続きをしていった。

社長が透析を導入した頃にも役所の手続きは随分とオレがしに行ったが、今回は更に障害者手帳の項目が増えたり、「まる障」と言われる新たな制度の手続きをしたり、特定疾病手当てが多少手厚い種類のモノに移行したりと、目まぐるしかった。
介護福祉士の方に、「あなたは仕事してこんな手続きもして良くやってますね、大変でしょう」と言われた。
確かにオレは自分でもなんだか良くわからないぐらい動いた。辛い気持ちにもなるがでもそれは昔からだ。他の連中は嫌気がさして逃げていったけれど、体の不自由な仲間を差し置いて逃げるという事だけはできなかった。人が良すぎるのかバカなのか、とにかく他人にはあまり理解されない行動のようだ。

でも一番つらいのはやはり足を失った本人だろう、これからは一人で立ち上がることも、歩くこともできない。オレにはとても想像できない精神状態であるのだから…

2013年6月10日月曜日

病気との闘い 3



社長が手術室に行き、2時間が経過した。だいたいこのぐらいの時間で手術が終わると聞いていたが、更に1時間、2時間と経っても待合室には何の連絡も入らない。
不安になったオレは自分から受付に聞いた。
しばらくして連絡がはいった。
「術後の痛みがとても激しいらしく、今日は面会できる状態ではないのでお帰り下さい」と言われた。

次の日、オレは仕事を終えてから病院に出向いていった。
集中治療室に入ってから担当の看護婦に聞いた。「大丈夫なんですか?話しはできるんでしょうか」
看護婦は「平気ですよ」と、さらりと言った。
オレは内心、会うのがとても怖かった。
そして奥にある社長の寝ているベッドに案内された。

社長の体には心電図と心拍数を計るものが付けられ、透析をしなければいけないので左腕のシャントに管を刺され人工透析をやり、鼻からは酸素吸入、切断された右足には負圧で血液を採るなんだか袋のようなものが付いている。
おおよそ生きている人間の姿とは言いがたい、いったい何本の管や線が体に巻きついているのだ?
社長は横たわり、腹を動かし一生懸命に呼吸をしている。そして何度見ても今まであった右足が膝下からなくなっている…
そんな壮絶な光景を見て、オレはその場で泣き崩れてしまった。
傍らで社長の手を握りしめながら泣いていると、社長は小さな声で「泣く奴があるか…。 足は大事にせえよ…」とオレにつぶやいたのだ。
オレはますます涙が止まらなかった。


現在、社長が足を切断してから三ヶ月ぐらいの日にちが経っているが、とにかく今でもオレ自身この日のショックがなかなか和らがず、思い出しては涙があふれてしまう。パソコンをたたいていてもだ…。
そして社長自身にこの日の事を聞くと、オレに会った事はまるで覚えていないと言う。

2013年6月8日土曜日

基礎体温



とは言っても車のハナシだ。

ウチのマスタングの水温計は特に数字もなくて、エンジンが暖まるとだいたい真ん中辺りを指してあとはほとんど変化を読み取れない。
まあ市販車のほとんどはこんな感じだろうけど…

「人間歳をとると血管が細くなり、必然的に血圧も高めになる」的な考えは、車にも多少あてはまるのではないかと思っているけど、特にここ最近の日本の夏の高温多湿の亜熱帯ぶりで、車の水温をもう少し気に掛けてあげようかなという事で、機械式の水温計を今年に入り導入してみた。





  
Sunpro製のとてもシンプルなものだけど、これを付けることによって車の仕組みが少しまた理解できるようになった。
梅雨時の今ぐらいにエアコンoffで走っていると、少し街なかの渋滞にはまればファンが廻りだす。
この車のサーモスタットの全開温度は212゜F
水温計を見ているとだいたい210゜F前後でファンが廻りだすことがわかる。
要はこの辺以上になると水温が少し高いから、サーモを開けてファンも廻してクーラントを冷やしましょう、という意図が理解できる。
ファンが廻り、水温が190゜Fぐらいになるとファンは止まる。

また同じようにエアコンをonにすると、今度はファンが常時廻るようになるので(コンデンサを冷やす為?)、水温は180゜Fぐらいで安定している。
夏には積極的にエアコンをつけた方が、電装系には負担が掛かるがエンジンには良いのかもしれない。それかまた、任意でオンオフできるファンスイッチでもあればいいのかな、面倒だけれども…

でもこういった機械工学もおそらく自然や生き物の摂理からヒントを得たのではないだろうか。

人は暑いと汗をかく。誰に言われるわけでもない、自律神経が指令を出して汗がでる。
汗をかいたところで、風とおしの良い場所にいく(渋滞を抜けて走り出す)か団扇であおぎ(電動ファンが廻る)でもすれば、汗が体温を奪って涼しく感じる。クールダウンしたところでまた一仕事しようかという気も起きてくるだろう。
車も一緒だ。



 
 
 
 
 
 

マスタング メンテ



先月から合間を見て、唯一の息抜きである愛車の整備をまたチョコチョコやりだした。


1997年型の車なので、パワーやエクステリアの追求というよりも、常に快調に走って欲しいといういたわりの想いで車に乗っている。
もっぱら自分での交換作業が多いが、走り屋ではないからシャコタンやら直管やらドリフトやらヒールアンドなんとかとかにはまるで興味なし。そんなのは公道でやるべきではないだろう。

以前は同型の車を所有するオーナーさん達と、一緒に走ったり遊んだり車を弄ったりしていたが、皆さんマスタングを降りてしまい、オレも自由時間が極端に少なくなってしまったのをきっかけに独りで楽しんでいる。






先月はクーラントを抜いて、ウォーターポンプとサーモスタット、ラジエターキャップを換えた。
毎年の日本の酷暑に耐えてもらう為の早めの交換。
はずしたウォポンやサーモやOリングを見ても、特に回転の渋さもないし、Oリングのゴムはヒビも切れもない。
この90年代のフォード車は自分が思っていた以上にタフに出来ていて、機関系は国産と比べてもなんの遜色もない、むしろそれ以上に頑強と思う。

新しいパーツを取り付けて、クーラントのエア抜きだけは念入りにやった。
サーモが開くと一気に入っていくので、ホースを揉みながら何度もエア抜きをし、だいたい抜いた分だけ入ったところで、軽く試乗。
翌日になると少し水位が下がり、補充してまた試乗を何回か繰り返してみた。
一月ぐらい経ったがクーラントの漏れもなく、水位や水温も安定している。
大丈夫なようだ。




そしてお次はフューエルプレッシャーレギュレータ。
まれにコールドスタート時に掛かりが悪くて、カブったような症状もでるので、これまた趣味的に交換。プラグやプラグワイヤー、O2センサは新しいのでこいつに着目。
燃ポンのFuseをはずしてクランキングしてガス抜きしてからはずした。
本来なら燃圧ゲージで計って確かめたいところだけど、どこにどうつけるかよくわからないのでパス。走り自体にはなんの変化もない。

まあ、予防的にやってる整備も多いのでパーツの無駄といえば無駄かもしれないが、15年前の車だから新調してバチがあたる事もないだろう。
DIYが好きなのもあるんで…

2013年6月6日木曜日

病気との闘い 2

社長の手術の日(足を切断する)、朝9時に杏林大学病院の救急の窓口に一緒にマスタングで行った。
救急扱いなので、何時から手術なのかはわからない。
レントゲンを撮ってから、最上階の集中治療室へ運ばれた。
オレはすこししてから集中治療室に付き添いで案内されたが、マスクして滅菌した簡易の服を着させられて分厚いドアから入っていったが、周りにある医療機器やベッドで寝ている患者さんを見て、 “ただごとではない雰囲気” を強く感じた。とにかく普通の病棟ではない様相は恐かった。

社長の寝ているいるスペースに案内されて、傍らに腰掛けた。
1時間、2時間と過ぎてもお呼びは掛からない。

「帰りたい」

そう社長は何度となくつぶやいていた。

オレは横に一緒にいながら何を二人でしゃべっていたかはよく覚えていないが、なんだか社長は恐がる様子もなく、少しポカンとした感じでベッドで横になっていた。
そして夕方になってとうとう手術の時がやってきた。

ベッドから車椅子へ載せられて、社長は手術室に向かう廊下を看護婦さんに押されていった。
そのときの社長のちいさな後ろ姿を見て、オレはすごく悲しかった。
「勝手に連れていかないでくれよ」
そう想っていた。


2013年6月3日月曜日

病気との闘い 1

いままで46年生きてきて、自分は幸いにも病気で苦労をしたという経験がない。まあ足腰はそれなりにガタはきているけど、風邪もそれほどひかないし入院の経験もない。
永遠の独身状態で、体の栄養バランスはそれこそ最悪であると思うんだけど…

2013年を迎えてからというもの、自分の病気ではなく他人様の病気の事でおおいに苦しむ機会が増えた。
ウチの社長が糖尿病壊疽による右足切断を余儀なくされたからだ。

社長とは言っても今や自分と社長しかいない小さな工事屋。
社長には親兄弟や嫁さんもなく身寄りがない、単身広島から東京に来て逞しく生きる男だった。

15年前に社長が腎不全で倒れて透析導入になって、当時いた従業員は一人去り二人去りと、とうとう自分と社長だけになってしまった。
社長はもともと現場に出れなかったから、オレ独りで現場をこなし、何年も何年も大のオトナふたりぶんの工事をこなしてきた。
苦しい人生ではあったけれども、それでなんとか会社は機能していたし、社長も一人で何年も透析に通って頑張っていた。
そんなことをお互い何年も続けてこれたのは、簡単に言えば男同士の絆みたいなものが深かったからかもしれない。家族のような兄弟のような親友のような… そんな間柄だった。

でもそれは今年に入りいきなりやって来た。
「右足は切断です」
医者からの突然の宣告だった。
キーパーソン状態だったオレも社長と一緒にその宣告を受けた。
オレは本人よりも大きく泣いてしまった。
今まで酸いも甘いも一緒に分かちあってやってきた仲間(社長)の足を切られてしまうというのは、本当にショックだった。





雑記帳がわりに…

ぶつぶつ独りごとを書いていこうかな。

ウチの社長と山とマスタングが好きなド中年。

たぶん暗くて悲しい話しも多いけど、人生の足跡として…