2013年8月26日月曜日

オヤジの通夜


24日の土曜は半日で仕事を切り上げ、宇都宮の実家へと向かった。
夕方からのオヤジの通夜に出ねばならないので、高速を飛ばしていった。

実家に寄ってみると、お袋と姉貴と甥っ子たちがまさに今から葬儀場に出発しようとするところだった。
近所にあるさがみ典礼に皆で車で向かった。
典礼の担当者と挨拶を交わして、オヤジのいる待合室に入った。
親戚たちもチラホラと来始めている感じだ。
皆でオヤジの亡がらのところまで行って顔の白布を取り、オヤジと対面した。
お袋はとたんに泣き出してしまった。
先週盆休みの時に会ったばかりなのに… オレはオレでなんだか実感が沸かなかった。
次々と親戚達が到着して、待合室はだんだん賑やかになってきた。
親戚づきあいができなかったオレにとっては、本当に久しぶりに会うおじさんおばさん達の顔は、なんというか一種の感動のような感覚もあった。
皆、年は重ねてもあまり変わっていない。若い頃に会った印象そのままという感じだ。

夕方4時ぐらいから、納棺が始まった。
オヤジの亡がらの周りに立ち、花を添えたり、好きだったドラ焼きやらスケッチブックを入れて、皆一人づつ、お別れの言葉をオヤジにかけた。
お袋は、「おとうさん、おとうさん」と泣きながら呼びかけ、「楽になったんだよね、おとうさん」と顔を撫でながら言葉をかけていた。
オヤジが長患いでお袋もだいぶ苦労をしてきたと思うが、いざ顔を見ると泣いてしまうお袋。
夫婦の愛情は消えてなかったんだなぁと子供ながらに思った。
オヤジが生前、「お袋のことも少し気にかけてあげてくれよ…」とオレに言っていたのを思い出すと、お互い一途に支えあって添い遂げたんだという二人の想いもひしひしと伝わってきた。
夫婦の鏡だなと思った。子供はこういう親の背中を見て育つのだなとも思った。

納棺も終わり、あとはお通夜らしく皆で食べて飲んで故人を偲んだ。
あまり今まで聞いたこともないようなオヤジとお袋のエピソードに耳を傾けながら、オレも食べたり飲んだりした。

通夜が終わって皆実家に戻って一息ついたあと、オレはテーブルでお袋と軽く晩酌を始めた。
あとから姉貴も混ざってきて3人でいろいろ話した。
お袋のこれからの事や、遺産やら家のことやら、雑談やら。
今まであまりこういう場面はなかった。
オレは少し新鮮でもありうれしくもあり、なんだか少しホッとした気分にもなった。
たまには親兄弟で話すのも悪かぁないよね…



2013年8月22日木曜日

さようなら オヤジ


今年はいったいどうしてしまったのか…

22日未明、オレのオヤジが息を引き取った。

先週盆休みに帰って会ったばかりだが、だいぶパーキンソン病も進行していてあまり状態も良くなさそうだった。
おふくろもこの事でストレスが溜まっている感じだったし、オヤジもいろいろと苦しんでいる様子だった。
二人ともちょっと険悪な雰囲気になっていたので、仲に入って少し3人で話し合ったりもした。
オヤジはそのあと珍しく、「足の爪を切ってくれないか」とオレに言ってきた。
手がうまく動かないので切れないらしい。
オレは爪きりを持ってオヤジの足の爪を切ってあげた。
「こんなことさせちゃって悪い…」 オヤジがポツンと言っていたのが印象的だった。

オレは22日の朝は早出して7時前から現場で仕事をしていた。
突然おふくろの携帯から電話が鳴った。
もうその場で何の電話かがわかり、おそるおそる電話に出た。
消防隊員から「お父さんが浴槽で溺れてしまい…」そう言っている裏でおふくろが、泣き叫んで絶叫していた。
電話を変わってもらっておふくろと話しをしたが、ひどく動転していて会話にならない。
少しずつなだめながら話しをした。
すぐ姉貴にも電話した。姉貴は息子たちと一緒に宇都宮に飛んでいったらしい。
おふくろの姉妹たちも行ってくれたようだった。

十数年前から請負い工事をするようになり、あまり自由時間も金もなく、病気の社長にひとり付きっきりだったせいもあり、オレは世間一般の付き合いや行動が取れない人間になっていた。
冠婚葬祭にも出た試しがないし、そんな事が続いているうちに親戚に顔会わせをするのもだんだん気が引けるようになっていた。
今回も例外なく、オレはすぐには帰れない状況だった。
親会社や他の下請けの仲間にも連絡したが、そうそう簡単に代りはいない。逆に手伝ってくれと言われるぐらいに人手が足りていない。
いつもオレは後ろめたい。
でもしょうがない、そういう世界で生きているのだからどうしようもないんです。

たぶんこれからもずっと親不孝のバカ息子のままかもしれないけど、許してくださいね…
オレだって心の友でもある社長を亡くして、いつも独りで泣いて耐えてきたんです。
誰にもすがることはできなかったんだから。
葬式には行くから、オヤジ、堪忍してね…

2013年8月18日日曜日

グッバイ マスタング



5年間連れ添ってきた愛車を手放すことにした。

SN95のマスタングは、V6コンバーとV8コブラ合わせて10年間乗り続けた。

もともと車好きだったウチの社長に背中を押されて買ったV6マスタング。
乗り始めてみたら妙に楽しくて、ついにはコブラグレードを買うにまで至った。

マスタングには今まで乗り継いできた国産車では味わえない楽しい思いをたくさんさせてもらった。
車を整備したりモディファイしたりする喜びを教えてくれたのもこの車だし、友達の輪も広がってたくさんの場所に走りに行ったりした。
でも今年は悲しいことに、一緒に楽しんでくれたり出掛けたりした社長が亡くなり、仕事も独立する形となり、一区切りをつけねばならなくなった。
仕事で使うのも使えないことはないけど、さすがにちと恥ずかしいし使い勝手も良くない。
様々な思い出がたくさん詰まっているので、もう一台ボロい軽自動車でも買って2台持つことも考えたが、さすがに無駄が多すぎる。
2013年はいろいろなものとサヨウナラする形となってしまい心も晴れないままだけど、ちょっとずつ動きを変えていかないと前に進まない。

大手の車の買取屋に頼んで査定してもらい、買い替えならまあまあの値段が付くので決めた。
次の車は仕事でガサツに使っても腹が立たないような、ド中古ポンコツのカローラのハッチバックだ。
ただこのポンコツ、トヨタの2ZZ-GEエンジンを積んでいる6MTのTRDだ。
オールアルミで可変バルブエンジンが付いてるあたりはコブラとおんなじだ。
「羊の皮を被った狼、スリーパー」的な車を選んでしまうあたりは、相変わらずおバカな独身中年丸出しな感じだけど、多少のスパイスがないと退屈だから…

てな訳で、今日の朝は最後のドライブをちょっとして、あとは車内を片付けた。

またいつかアメ車に乗ることがあったとしたら、次は何に乗るかな…
でも一緒に楽しめる仲間がいないと、こういうのもおもしろくないね。

                  いままでありがとう、マスタング。
                     次のオーナーさんにまた可愛がってもらえよ


2013年8月8日木曜日

遺品と部屋を整理するということ


社長の住んでいた自宅兼事務所であるワンルームと、機械式駐車場の整理。
最終的にはマンション管理会社から業者を紹介してもらい、処分して空っぽの状態にした。

オレも大事なモノや引き取ってもらえないもの、使えるもの等を人にあげたり、リサイクル屋に売ったり、小さいものは自分で保管したりとあれこれやりながら整理していった。
管理会社も言っていたが、法定相続人のいない人の家財道具は本来勝手には処分できないそうで、血縁のないオレにも片付けする権利も義務も本来はないのだ。
ただ20年も一緒に連れ添った仲間だ。そのまま放置することはオレにはできなかったので、片付け処分することを決めた。

亡くなってから三週間ぐらいはほぼそのままの部屋の状態だったから、整理に部屋に入るたびに涙があふれてきた。
まだあの人のにおいや温もりが部屋に残っていて、今にも「よっ!」とか言いながら出てきそうだったから…
でももう戻ってくることはない。声も聞くことはできない。仕事が終わって帰ってきても一緒になって話すこともできない。オレにも配偶者や子供もいないから、なんというか寂しさが身に染み渡る感じだった。
それでも心が救われるような事もいろいろあった。
近所で親交のあった人や、社長の担当だった介護福祉の人、病院のケースワーカーさん、透析クリニックのスタッフさん。
社長に付き添ってずっと傍にいたオレがショックを受けているのを心配してくれて、いろいろ声を掛けてくれたり、励ましてもらったり、飲みに連れて行ってくれたりしてお世話になった。
人との係わり合いで人間は生きているのだと強く感じた瞬間だった。

「あなたは一人で何年間も社長さんの事を最後までよく看てあげてましたよね、社長さんはほんとに幸せな人です。このことはあなたの人生をきっと豊かにしてくれるはずです」
こんなことまで年配のご夫婦が言ってくれた。うれしかった…


そして8月7日、業者さんが片付けて空っぽになった部屋で正座をして、最後のお別れをした。
「20年間あっという間でしたね、今までありがとう、あなたに逢えて良かった、ケンカも多かったけどとても楽しかった。
腎不全で障害者になっても、足を失ってしまっても、オレはあなたが大好きでしたよ、またどこかで一緒に仕事しましょう、約束ですよ…
                  さようなら、さようなら…」




2013年8月3日土曜日

ホッとした…



健康診断を受けたクリニックから、プチ肺がん宣告をされた後の数日はホントに憂鬱だった。
開業したてでもう人生を諦めないといけないのか、田舎に帰るしかないのか、年老いた両親にそんな事言えるか!等々、いろいろな思いが頭をよぎった。

そして肺のCTスキャンの当日がやって来た。
宣告したクリニックにはCTスキャンの設備がない為、少し大きめの病院にいく事になった。
紹介状と自分の3年ぶんのレントゲンを抱えて受付にいった。

しかし、こういった命にかかわるような病名を言われてから行く診察というのは不安でたまらない。
医者から何をいわれるのか、一人で治療やら入院の段取りをしなきゃならないのか、と、余計な事ばかり考えてしまい、どうしてもうつむき加減になってしまう。

そしていよいよCTスキャン。
丸いドームに体を突っ込んで、後はまな板の上の魚状態。
しばらくして、診察室からお呼びがかかる。
覚悟を決めて入る。
担当の呼吸器科の先生にご挨拶。なんだかあっけらかんとした顔つきで、
「今日はどうされたんですか?」と先生に聞かれ、
「クリニックから、癌の疑いがあるのでと言われ診察しに来ました」と答える。
すると先生は「これで癌と言われちゃったんですか?」と半ばあきれたような顔で言った。
CTスキャンした画像とレントゲンをオレに見せながら、「どこも異常は見当たりません、全く問題ないですよ」との返事が返ってきた。
オレはなんだかホッとしたような、ガクっと力が抜けたような状態でその言葉を受け入れて噛み締めた。
先生は、「もっと喜んでいいんですよ!」とまで言ってくれた。

「良かった、なんともないんだ」
そう思いながら、
クリニックの先生から受けた「癌です」という一言がすごく腹立たしかった。
早期発見早期治療、疑わしいものは罰せ、という考えもわからなくはないが、たったその一言がどれだけ人間に負担を掛けるのかわかってるんだろうか、プロならもう少しマシな対応があるだろうが!とさえ思った。
紹介状やCTスキャンだってタダではない。身銭を切って払うんだし、行政からもお金が出るのだろう。
人に不安を与えておいて取るものだけはチャッカリ取ってというやり方はどうなんだ?
程度のいい詐欺みたいなものではないか?
そんな事まで考えてしまうような一日だった。

「医者がすべてではない」
これは、亡くなった社長と医者や看護婦のやり取りを見ていて強く感じていた事だ。
最後に決断するのは自分であって、病院ではない。
例え、寿命が縮まったとしても、最後までどういった形で生命を全うするかはその人本人が決める権利を持っているのだ。