2018年1月7日日曜日

熱




衝動買いに近かったGT500も、購入して3年が過ぎた。

3年で15,000キロほど乗ったが、ここ1年は3,000キロぐらいしか乗っていない。

50歳も過ぎると、心身ともに変わってくる。

若かった頃のような車に対する熱は、今はそんなにないのかも知れない。
趣味性の高いモノって、所詮、自己満足の世界だしね。
ローンはないが、2台分の維持費もかかるし、「無駄が多いなぁ」なんて事をいつも感じながら乗っている。



でもやっぱり好きなんだろうか…

でなかったら、マスタングに15年も乗らない。



行ってらっしゃい、おっかちゃん 4


母が逝ってからの日々というのは、故人を偲ぶような余裕もなくて、
通夜と葬場祭の準備でとても疲れた。
冠婚葬祭は人として当たり前の儀式なのかもしれないが、時として人に優しくない行事なのではないかと前々から感じてた。
俺に家族でも居てお願いするとしたら、葬式なんていいから、火葬場に直葬して散骨なり処分なりして、浮いたお金で飲み食いでもしてくれたらいい。あとは心の中で少しでも思い出してくれたらそれでいい、って事だろうか。
それでも自分の母であるから、できる事は精一杯やった。
姉の手助けもあり、先月の納骨も無事に終えた。

生前の母は、「ぽっくりと逝きたい…」と良く語ってた。 
ただ、残された側としては、あまりにもあっけなくて心の置きどころを失ってしまうのだけれども、亡くなる前の週は富士山五合目まで旅行に行き、三日前はサークルのフォークダンスを元気に踊って、前日まできちんと家計簿まで付けていたぐらいだ。
母はあまり苦しまずに本懐を遂げたわけだから、良しとするより他はないのかも知れない。

母が救急で運ばれた際、「頭痛と眩暈がひどい」と自分で119番通報し、連絡先である俺と姉の事を伝えつつ、「延命処置をしないでください」と救急隊員に言ったそうだ。
救急が着くまでの間、母は旅行バックに自分で着替え等を詰め、入院の準備までして倒れていたらしい。


「大変な時に居てやれなくてごめん、でも… 偉いなおっかちゃん。
くも膜下出血起こしてるのに自分でてきぱき段取りまでして、そんなに綺麗に逝けるものなのかい?
俺には絶対マネできないよ。
でも、俺も男だからおっかちゃんを見習わなくちゃいけないね」

そう思った。

半世紀を越えるぐらい俺も生きて来たけれど、それまで現在進行形で生きてきた証と記憶がすべて過去のものになるという事を、父と母の死をもって知った。
やはり寂しいし、なんだか力も沸いてこない。
ただ、人というのはやっぱり、記憶をたぐって生きていく心の生き物だ。
今までの事を想い出して、噛み締めたり涙したりしながら腐らずにやる事が生きる事なんだ。
でなかったら、母に笑われてしまうよね…



それじゃあ 最後に


おっかちゃん、行ってらっしゃい

向こうには父も兄も居るから大丈夫だよね?

さようなら

いや、とりあえず、行ってらっしゃいだね

あの世の事まではわからないけど、
また遭う日まで…






2017年12月18日月曜日

行ってらっしゃい、おっかちゃん 3


4日

実家に泊まり、朝になって病院に向かった。

午前10時ぐらいだったか? 病室に入る。

横になっている母の様子は… あまり変わってない感じがする。
姉にも「母は特に変わりないよ」ってメールしたように思う。
いつものように傍らに腰掛け、母に話しかけながら顔を触ってみたりする。
実家から持ってきた新聞を広げ読む。
病室のテレビをつけてみたりもする。
廻りにはいろいろな音が溢れているけど、自分には静かな時間が流れる。

お昼どきが近づいた。
姉の友人が持ってきてくれたお弁当をもって談話室に行き、備え付けのレンジで弁当を温めて食べた。周りには数人居たかな…
黙々と1人で弁当を食して、昼を済ませた。
病室に戻る。

「ん?」
母の顔色を伺うと、ほんとになんとなくではあったけどちょっぴり青白いというか、冷たい感じの色合いというか、ほんと、ほんの少しなんだけど顔色が悪くなっているような気がした。

しばらくすると看護師さんがやってきた。
「心拍がだいぶ弱ってきています」
そう言って何分もしないうちに、主治医の先生が来た。
その時の先生の言葉はもう覚えてない。
もうわかっていた事だから。

84年続いてきた母の命は、目の前で幕を閉じた。

俺は母の手をとって握りしめて
「いままでありがとう」
そう言っていたと思う。
以前の親方の時と同じように…

2017年12月1日金曜日

行ってらっしゃい、おっかちゃん 2


母を見舞って、姉と俺は実家に戻った。

俺は毎度のことだが、個人請負で仕事をやっているので休めない。
その日は実家に泊まり、早朝の3時ぐらいに起きてカローラに飛び乗り、東北道で東京に向かった。真っ暗な高速道を、夜中のテレビでもぼんやり眺めるような感覚でハンドルを握って運転している。
「トラックも結構走ってるなぁ」なんてボヤきながら…
それからの日々というのはとにかく、時間や曜日の感覚があまりなく、半分夢心地のようなユラユラした状態だったかな。

世田谷で仕事をしながら、寝不足とこれからの事で気持ちは不安定だった。
15時ぐらいに仕事を終え、また宇都宮に向かった。
病室に行くと姉と甥姪たちが来ていた。
日中は母の妹弟が見舞いに来たらしい。
母は昨日と変わっていない。

変わっていない?

今の母の状態はどういう状態なんだ?
生きていると言えるのか、ピクリとも動かない。
目も開けないし、言葉も発さない。

その日、母を個室の病室に移してもらった。
皆で母を囲んで座っている。
しばらくすると主治医の先生が来た。
神妙な面持ちで母を見て、言葉を飲み込んでいるようだった。
しばらく沈黙が続いた。
「何かありますか?」と、去り際に先生が問うてきた。
皆、何も言わない。
俺は無意識に言葉を発した。
「あの、しばらく、何日もこういう状態のままなんでしょうか…」
先生は「一週間も二週間もは…、ないですね…」と、とても静かで柔らかな口調で答えてくれた。
それを聞いていた皆は、なんとなくわかってはいたのだろうけど、
主治医の言葉を理解して、急にすすり泣きだした。


椅子に腰掛けて、ただひたすら時間が流れる。
人工呼吸器の音だけ規則正しく響いている。
姉も仮眠できる部屋に出ていった。
傍には母がいる。
頬にふれると暖かい。
ふと話し掛けるけど、何も返してくれない。

11月3日の早朝。
俺は「何か食べてくる」と姉に言って外に出た。
ファミマでミートソースを買って車内で食べたと思う。あとホットコーヒーも。
すぐに病室に戻った。
姉も当然疲れている。
「何日かはこっちに居れるから、家に戻ってもいいよ」
俺は姉にそう伝え、とりあえず早朝に二人で実家にもどり、
姉と子供たちは埼玉の住まいに戻った。
俺は数時間実家で休んでそれからまた病院に行き、何時間か母の横に座っていたかな。

夜になって俺はひとりまた実家に戻った。
母も誰も居ない実家で夜を過ごすのは、この日が初めてのように思う。
何を食べたっけ?風呂は沸かして入ったな…
とにもかくにも、静けさと寂しさで実家にあんまり居たくなかった。






2017年11月30日木曜日

行ってらっしゃい、おっかちゃん 1


11月1日

この日は仕事が半日で終わり、予定納税でも支払いに行くかと、チャリンコに跨って近所の銀行に向かう途中、携帯が鳴った。
表示は母から…

普段、こんな時間帯に携帯電話になんてかけてこない。
胸騒ぎがした。

携帯に出ると、救急隊員からだった。

「東京の息子さんですね。お母さんが救急で運ばれました。
心肺停止がありましたが、どうにか心拍は戻っています。
とても厳しい状態です。いずれにしてもすぐに戻ってあげて下さい。
病院の方から電話連絡があると思いますので…」

他にもあれこれと言っていたが、とにかく母が倒れてしまった。
姉に電話した。  出ない。
急いで税金を納めに行って、部屋に戻る。
もう一回姉に電話したら出た。

「おっかちゃんが心肺停止して蘇生して…」
そんな事を伝えている電話口の向こうの姉は、そりゃやっぱり慌てている。
姉も急いで宇都宮に向かったようだ。
俺は東北道をMTのカローラで、ずっと右車線のまま走って行ったように思う。

夕方に病院に着いた。
受付して救急の病棟へと案内される。
姉が先に着いていた。
面会はしてなくて、ざっくりと入院の説明を受けていたようだ。

どれぐらい待ったかな。
主治医の先生が待合室に入ってきた。
こんな風に回想しても、その時の相手の一言一句すべてなんて覚えてない。
とにかく先生は、「お母さんはとても大きな動脈瘤を持っていましたね。それが脳で破裂して心肺停止になり、救急隊員の措置で蘇生。病院に来てからまた破裂し、また蘇生しました。
今、脳の中は血だらけで、人工呼吸器につないで心臓を薬で無理やり動かしている状態です」
そんな文言を聞いている姉弟は意外と落ち着いていて、でもきょとんとしていた。

それから病室へと案内された。

ベッドに母がいた。

そこにいる母は紛れもなく俺の母なんだけど、
人工呼吸器で空気を取り入れ、薬で心臓を動かしている状態の彼女の顔や体に、
生命の覇気のようなものはない。
呼吸器の「シューッ、プスーッ……シューッ、プスーッ…」という、ただただ一定の動作音に合わせて、胸が上下しているだけだ。

母からふと目を外すと、病室の窓の外は茜色の空がきれいに広がって、ほんとに胸に染みわたってくるような夕焼けだった。
でもやっぱり俺は母の傍らに腰掛けて、目は涙であふれていたっけ…






2017年1月26日木曜日

ガットギターの音色

 
 
 




ほんとにとおい昔、自分がまだ小学生にもならないようなころ…

家に一本のクラシックギターが置いてあった。
たぶん親父が買ったらしいのだが、弾いてる姿も弾いてもらったような記憶も残ってない。

同じころ、姉貴が持っていたLPレコードを勝手に引っ張り出して、自分はよくサイモン&ガーファンクルを聴いてた。
プラグを介さない、優しい音色のギターと彼らのハーモニーが子供の自分の心によく響いた。

そんな幼いころの記憶のせいなのかはわからないけど、大学受かって一人で上京するときに、親父のガットギターも一緒に勝手に持ってきて、いつもアパートで適当に弦をはじいてた。
たいして弾ける訳でもないのに。

ロックのギターやベースやドラムは女性が弾くとなんだかちょっぴり頼りないんだけど
女性の奏でるガットギターの音色は
大きな質量の体と手を駆使して出す男性の音色とまた違って
表情豊かで繊細だ。


雲の上の親父は何を想ってギターを手に入れたのかはわからないけど、
あなたの息子は、言葉はなくてもなんとなくわかってるみたいですよ…









2016年11月9日水曜日

一喜一憂


俺が学生の頃は、携帯電話もなかったし、インターネットやらパソコンなんてのもなかった。

彼女とデートをするにしても、直接約束するか、家の電話でやり取りして時間や場所を決めるぐらいだった。約束したらあとは現地で待つしかない。今どの辺まで来たとか、30分遅れそうとか、知る術もない。それでもまあ、人間関係は成り立つ。約束どおりに事が進んでも、すっぽかされてしまっても、それはそれで味というものでしょう。

昔はなかったモノが世の中に流行り始めると、若い子たちはそれなりに吸収するのも早いが、俺みたいな歳になるとそうもいかない。

ハロウィン? なんだそれ。
恵方巻き? そんな習慣あったっけ。

なんて事をチラチラ感じながら考えれば、自分よりも年配の人にとっては、クリスマスもバレンタインも同じような事が言えるんだろうなと思ったりする。

テレビも新聞もインターネットも、伝わり方には差があるけどたくさんの情報を我々に与え、考えさせて、悩ませる。
伝える側の儲けを含んでいるから、人々は悩んで一喜一憂する。

政治はこうだ、学歴はどうだ、ファッションはこうだ、ライフスタイルだ、自由だ平等だ、所得だ、男と女だ…
大きくて高次な脳を抱えている人類は欲も悩みもなんだかややこしい。




自分で大切にしている感覚というか、思いが一つだけある。

子供はなぜ走り回るのか?  という事だ。
誰に頼まれなくても、彼彼女たちは、疲れという概念を理解せず走り回る。
子供は元気だから…  確かにそうだけど
俺がもし答えるとしたら

「生への執着を持っているから」 
だろうか  

なんで山なんか登るの?
それに対する答えも一緒なんだ。

それでもわからなければ、あなたが生まれてきた事を考えたらいい。

自分の父と母が結ばれ、母の体内に父の何億という種が放出される。
肉眼で確認したことなんてないが、たぶんオタマジャクシみたいなものが卵子を目指して、永くて過酷な旅に出るんだろう。
競り合いながら力尽き、精魂尽き果てるのか、ほとんどの種は死んでゆくだろう。
その中には、我々がわからないだけで辛くて苦しい、逆に晴れやかで楽しいドラマも山ほどあったのだろうと思う。そんな中をくぐり抜けながら種たちは泳ぎ、進み続けるのではないか。
そんな種たちに、「あなた達はなぜそんなに頑張って泳ぐの?」
と、問う者はいないでしょう。
戦い抜いて晴れてこの世に生を受けたとしても、それは人があの世とこの世を勝手に分けて考えているだけで、勝利ではないでしょう。
戦いは続いているんだ。だから邪心のない子供たちは走りまわる。腹の中の続きなんだ。

人は豊かな感情を備えているけど、でもずっと腹の中の戦いのまんまなんだ。
楽しければお腹がよじれるまで笑い、悲しければ泣きじゃくり、
あとはそんなに世間の時事に一喜一憂しないで
人事を尽くして天命を待つほかないでしょう。











2016年2月7日日曜日

Ford





2003年に初めてフォード車を手に入れて、途中1年ちょいぐらいのブランクを除いて、まあ結構な間フォード車に乗り続けている。


Eaton製、122モデルのブロアを積んだ今の愛機もまあ快調そのものだ。
ブースト計の針がふれるような乗り方もしないから、だいぶパワーを持て余し気味だけど…



結構馴染みのあったフォードジャパンが撤退してしまうという事で、自分のは並行モノで関係ないとは言っても寂しい限りだ。
1996年をピークにして販売が落ち込んでいるという事だから、マツダと提携して売っていたSN95マスタングの頃が好況だったという事か。
確かに、すこし国産っぽいエクステリアのSN95マスタングは値段も今よりは手頃だったし、たくさん見かけたし、オフ会なども盛況だったと思う。
S197~S550にチェンジして、去年も50周年とかいってイベントもあった。
ただ今のマスタングの車両価格はちょっと高すぎではなかろか。
2,3リッターのターボ車が500万ではねぇ…
今乗ってるGT500だって知らない人から見たら高級外車のようだけど、やっぱりフォード車って基本、造りがトラックみたいな感じだから。まぁその野暮ったさが長所でもあるしファンが多いのも確かだけど。

サービスや保証は継続するとの事だが、フォードが日本事業から撤退するのに継続って事は、独立採算で新たな車屋としてやっていくんだろうか。ブルーオーバルの看板ぐらいは残して欲しいもんだけど、いちフォードファンとして…



2016年2月5日金曜日

本



本はたくさん読んだ方がいい。

なんとなく思ってはいても、なかなか苦手だ。
仕事でイライラしたりしていると、活字を読んでもなかなか頭に入らない。
それでも最近すこし読むようになったかな。
内容にもよるけど、月に3冊読むのは自分にしては珍しい…




御巣鷹山を題材にした小説。
あの日航機の墜落をもとにした小説だ。
社会派の山崎さんらしい世界に没頭した。

なかでも、墜落からその後の一部始終をリサーチして書き上げた部分は、たとえ書物の中だけの話しとはいえ、衝撃的で心を打つものがある。
自分の家族を一瞬にして失い、粉々になって回収された誰だかわからない遺体を確認しながら、何日も自分の肉親を探さねばならない地獄はとても悲しく、海の底に沈められているように重い。


自分がこういう内容に共鳴するようになったのは、親しい人との悲しい別れを経てからだ。
人が「死」を目の当りにし、考えるときは、それは紛れもなく「生」を考える瞬間でもあると思う。
今の日本は医療が発達しているし、戦争も何十年もない。生と死がワンセットであることを感じにくくなっている時代の中で「死」というキーワードを出すと、なんだか暗くて辛気臭く思われがちだけど
決してそんな事はないだろう。なぜって、それはすべての生命の根幹なんだから。

3年前、相棒が病院で切り刻まれながら亡くなってゆき、間髪入れずに次は父が逝き、ひとりで泣きながら苦しんでいる時に自分を救ってくれたのは、人の言葉や文章、音楽や自然や山や仕事だった。
山の中で心臓をバクバクいわせながら危ない崖を登り充足感を得るのは他でもない、「生」を実感できるからだ。
また、同じような苦しみを味わった人や年配の方の言葉というのは、言葉数こそ多くはないが、とても心に響くし時間を経ても忘れないものだ。
仕事もそう、仕事自体に自浄作用があるわけではないけど、作業であくせく動いてる時や仕事仲間と雑談している時は気持ちがかなり紛れる。

こういった事を経てくると、身のまわりにあふれている事柄が少し息苦しく感じるようになる。人に注目されたいとか売りたいという作為が濃くて、すごく疲れてしまう。
テレビにしてもそうだし、電車の雑紙の吊り広告のキャッチコピーひとつをとっても、なんだか気色わるい。資本主義でいろいろ売るためには仕方ないし、あんまり否定しても頑固な世捨てオヤジみたいになってしまうからまあやめるが…

でももちろん好きなテレビもある。
ちびまる子ちゃんなんかはいいと思う。
一見くだらないアニメに見えるけど、大事なものが凝縮されているから。

なんだか、本の話しじゃなくなったな…



2015年9月12日土曜日

心技体




広い世の中、猿やカモシカも登らないような岩壁を登るツワモノはたくさんいるようだが、フリーソロというカテゴリーだと、とても人間技とは思えないようなクライマーもいる。
ほんのわずかな手がかり足がかりを頼りに、なんの安全確保もなしで何百メートルと切り立った岩峰を一人で進んでいく姿は本当にタフな世界だ。

技術面、精神面、肉体面すべてが突出していないと出来ないだろうが、ほんの些細なミスでも命を落としてしまうギリギリの世界。特に精神面がすごく不思議でならない。
死に対峙した状態で心を冷静に保つ技なんて、習得したり鍛えたりできるものなのか?
それとも持って生まれた物なのか?

絶対にやりたくもないしできない世界ではあるけれど、でもちょっと憧れたりもする。
カッコつける事もなければ、能書きをたれることも、駆け引きすることも色目を使うこともない。
あるのは己の身体とビッグウォールだけしかないんだから…









2015年8月16日日曜日

標高 3,180mの穂先





盆休みは山篭りの日々となった。
姉の誘いで北アルプスに行くことになったから…


近年までお互い疎遠ではあったが、気が付けば各々勝手に山を歩き始めていた自分と姉。
こういうのも血というものなんだろうか…
昨年の男体山に続き、姉と登るのは二回目だ。


姉の誘う山は、若かりし頃の芥川龍之介も登ったと言われる名山、槍ヶ岳。
綺麗な三角錐の形をもつ急峻な頂上部分。







なんとなく知ってはいたが、Wikiで検索した画像を見てオレは後ずさりした。





高度障害もちで岩壁が苦手な自分だ。
「こりゃ無理だわ」と感じた。

ただ、特殊な装具は必要なく、高度感に負けない気持ちがあれば登れないことも無いようで、実際、おんな子供でも制覇している人は多い。
あの押切もえチャンでさえ、べそをかきながらでも登っているのだ。



11日の夜中。オレはすでに姉のミニバンに乗り込み、長野松本ICに向けて走り出していた。

夜中の3時すぎあたりに沢渡に到着。マイカーで行けるのはここまで。
二人でビールをあおって車中で仮眠を取る。

朝の7時すぎにバスで上高地に向かう。
道中、すぐ横に焼岳が見える。でかい山だ。

8時前に上高地に到着。
でかいザックを背負い、歩きはじめた。
穂高連峰が絵画のように目の前に広がっている。

天気はまずまずといった中を梓川沿いに10kmほど歩いてゆき、標高1,800mの槍沢ロッヂに到着。
今日の宿はここだ。かき入れ時のシーズンだから混んでいる。
布団一枚分のスペースに二人が寝る。これが山小屋か…
当然ぐっすり眠れるわけもなく、夜が明ける。

朝は予報どおりの悲しい雨。
二人で顔を合わせ、とりあえず標高3,000m地点にある肩の小屋に行くことを決める。
雨具を装着し、さらに歩き始める。
まるで苦行のような山歩きになってくる。雨が止む気配もなく、標高が上がるにつれて気温も少しづつ下がりはじめる。本来ならば周りに見えるであろう北アルプスの雄大な景色もガスに覆われて真っ白な霧の世界。
だんだんと足場も岩だらけになり、ごつごつとした山道を登っていく。
いよいよ風が強くなってくる。
雨で湿った身体に吹く山の風はとても冷たく、夏でも手がかじかむ。
なんとか踏ん張り、肩の小屋である槍ヶ岳山荘に昼ごろ到着。
宿泊手続きを済ませ、携帯コンロで湯を沸かし、冷えた身体に持参のカップヌードルを流しこんでいく。
予定ならこれから頂上へ登るはずだったが、雨と霧が引かず危険なのでその日は断念。
そのままオレは前日のロッヂよりは広い就寝スペースで仮眠をとる。
目が覚めると、どんよりと頭が重くて吐き気が。
「やっぱり高度障害か…」
その日は体調悪いまま、夕食も取らずに就寝。

目が覚めれば、今日も雨。吐き気も残ったまま…
予定では今日は下山なのだが、雨の日に登り、頂上も景色も楽しめずに雨の日に下山では、何しに来たのかわからない。
15日の明日は天気予報は晴れ。
もう一日泊まる事に決め、明日の早朝に二人で穂先にアタックする事にした。
その日は高度障害も少し慣れて、飯も多少は食えた。
やる事がないから本でも読むしかない。身体を動かさないから夜も寝つきが悪かった。

次の日の早朝3時。小屋に泊まっている他の客達がガタガタと動き出す。
「星がすごい!」とささやいている声が聞こえた。
オレもつられて小屋の外に出ると、プラネタリウムのような満天の星たち。
10分ぐらいボーっと見ているうちに流れ星が3つも見えた。流星群が来ているらしい。
寝ている姉を「満天の星だよ」と言って起こす。
あたりを見ると、穂先にアタックする支度をしている人が多い。
まだ暗かったが、姉も「頂上行こう」と言うのでオレも急いで身支度。
LEDヘッドランプを頭につけ、ストレッチ。
ほんのりと空が白み始め、闇の中にうっすらと黒く浮かぶ穂先にヘッドランプの明かりが列をなして登っていくのが見える。
二人もあとから続く。
風も結構冷たくて強い。暗い中を岩壁にしがみ付きながらよじ登っていく。
オレの前を登っている青年はかなり慣れていて、それを真似しながら必死でついていく。
登りが少し渋滞し始め、岩壁に貼り付いたまま一息つかざるを得ない状況。
空は黒から群青色に明るくなりはじめ、周りの標高3,000m級の山々の荘厳な姿がはっきりと、不気味に浮かびあがってくる。
見てはいけない足元は崖。
「こんな暗い怖いとこでオレ達何やってるんだ、とんでもない所に来ちゃった」
そう思うと恐怖で足がすくむ。ただもうUターンできる状況ではない、一人では降りるに降りられない。行くしかないだろ。
無我夢中で岩や鎖やハシゴにしがみ付き、にわか仕込みの3点支持でぐんぐん登る。後ろの姉をちらりと見やるが、だいぶ離れてしまった。ただ後ろを気にする余裕がオレにはない。考えずに進まないと、足がすくんで動けなくなってしまうから。
最後の垂直のハシゴに手をかけ、確実に登って行く。

着いた…
頂上だ!

およそ八畳分ぐらいしかない頂上は人でいっぱい。
怖くて座り込んでしまうと思っていたが、どうにか普通に立っている自分。
コンデジを取り出してシャッターを切る。


あの穂高連峰がなんだか下にあるように見える、まるで宙に浮いてるような感覚。
寒さと恐怖が混ざって、膝が震えている。なにせ今年7月中だけで6人の命を飲み込んでいる槍と穂高だから。
ただアドレナリンも確実に放出されていて興奮状態。
無事に生きてここから降りられるのかという怖さと、360度の とんでもない眺めの素晴らしさが入り混じっておかしくなりそう。
どう形容したらいいか、
上は、こめかみに銃を突きつけられ、ロシアンルーレットをされながら、
下は、女にしゃぶられている、
そんな感じか、どんなだ? わからない

だんだんと日が昇ってくる。御来光だ。
するとひょっこり、遅れていた姉がハシゴから顔を出し、頂上にたどり着く。
どうやら姉の方が高所には強そうで、多少はしゃいでいる様子。
ちょうどいいタイミングで太陽も顔を出した。

20分ぐらいは頂上を満喫しただろうか…
後から人が続々と登ってくるので、降りることになった。
しかし、周りを見ていると威勢のいい輩が多い。
女の子でも涼しい顔して登ってくるし、危ない端っこをひょいひょい歩いている。ハシゴで両手を離して記念撮影している人もいた。
ただやっぱりハシゴの途中で恐怖で泣き出してしまう女性もいて、顔面蒼白でハシゴにしがみ付いている姿を見て思わず声をかけた。「頑張れ!」

さて今度はこっちが頑張る番。登るよりも帰りが大変。
姉が先行して降りていき、オレも後から続く。
岩や鎖を慎重にたどりながら下る。
周りもすっかり明るくなり、崖下もはっきり見えて怖いが、思ったよりも落ち着いて行動できている。
じっくりゆっくり歩を進め、やっと肩の小屋まで降りてきた。ものすごい充足感と安堵感だ。
姉と健闘を称えあいながら、小屋に入り朝食。
さあ、これから一気に下山して、関東に帰らないといけない。

支度を整え、小屋を後にする。
雨で登って来た時と違い、周りの雄大な景色を眺めながら降りるので、足取りも気分も軽い。
振り返ると、さっきまでいた槍の穂先や、壮大なカールが広がっている。

 

歩いて歩いて、ひたすら歩く。行き交う人達と挨拶を交わしながらひたすら下る。
途中、サルやら蛇にも遭遇した。雷鳥には遭えなかったけど…
(後になってわかった事だが、猿が雷鳥の雛を捕食することもあるんだそうだ。ハイマツ帯まで猿の生息域が広がっているらしい…)
朝、7時ぐらいに小屋を 出て、上高地に到着したのは17時近く。
休憩入れて10時間も歩いた。登りと下り合わせて40km弱歩いているから足もパンパン、足の豆の皮も破けそう。
バスに乗り込み、沢渡に向かう。身体はクタクタだが、心地よい疲労感の中でバスに揺られるのもいいもんだ。
車のある沢渡駐車場に着き、すぐ脇にある温泉でサッと汗を流して出発、松本ICに向かう。辺りはもう夜。高速に乗る前にそば屋に寄り、ざるうどんをかき込む。ここのそば屋は大当たりで、とてもうまかった。
高速に乗って諏訪湖の辺りを通りかかると花火大会をやっていて花見渋滞。そいつを過ぎて
山梨方面をひた走る。お盆のUターンラッシュで大渋滞かと思われた大月近辺も時間が遅いせいか5kmぐらいの渋滞ですんだ。JR高尾駅に着き、オレは中央線に乗り込み家路に向かい、姉は圏央道で自宅へ帰っていった。姉もオレも0:30ぐらいに家に着いた。


まるまる4日間は山の中だったが、とにかく互いに無事に帰れてなによりだ。そうでないと意味がないから。
思い返せば、ちょっぴり危険な旅だったけど、なかなか出来ない体験をさせてもらった。
日本のマッターホルンに登れたんだから…
ただ、また穂先に登りたいかと言われると首をかしげてしまうけど、でもまたどっかのデカイ山を歩く事になるんだろうな、あねちゃんよ。
















2015年5月24日日曜日

山が教えてくれたこと




新聞を読んでいたら、若い頃にエベレストにアタックして凍傷で手の指を10本失った方の話しが出ていた。


山なんぞに興味のない人からしたら、「なぜいちいちつらい目に遭いにいくのか」と思うに違いないような話しだ。
でもその方はこう書いている。「山には厳しさと優しさがあり、自立心を養ってくれる」
自分も「うんうん」と、うなずきながら読んだ。


今まで4,5年かけて単独行でいろんな山に登ってきたけど、特に最初の頃に日帰り強行で登った北岳は今でも想い出が深い。
自分の体力や足腰と相談しながら計画を練り、真っ暗な林道を登山口に向けて車で走っていく感覚は期待と不安が交錯してすごくドキドキしたものだ。
登山口まで来れば、周りの澄んだ空気と豊かな自然が身を包んで不安を取り払ってくれるし、雲のあいまから見える、遠く高く立つ北岳の姿はどこまでも神々しくて、その姿が更に自分を奮い立たせてくれた。

上りの道中はそれこそ、ほんの少しの飴とたくさんの鞭、の世界。
ただひたすらに何時間も登り続けて、心臓はフルに稼動し、息も絶え絶え、でも登ってゆく。
頂にだんだんと近づき一息ついて天を見上げれば、下界と明らかに違う蒼さの空。陽の光も刺すように強い。周りを取り囲むアルプスの山々の姿も気高くて綺麗だ。
そういえば冷や汗も出てくる。吐き気もしてくるし、クソも出そう。穴という穴から身体のモノが出そう。これが酸欠の症状なのか。

人は元来シンプルだ。
山に登り続ければ、心拍数は一気に上がる。別に自分で上げている訳じゃない、身体が酸素を欲しているんだ。「酸素が足りないぞ、息をたくさんして、心臓をもっと動かさないと血がめぐらないよ」と…
なんぼ自分を好きになろうが嫌いになろうが辛くて死にたくなろうが、自分の身体は健気にひたすら生きようとするものだ、そう教えてくれる。

そんな事を味わっていきながらたどり着くピークでの景色はまた別世界だ。
達成感と心地よい疲労と大パノラマのご褒美は他にはない。


冒頭で書いように、「いちいちつらい目に遭いに行くようなもの」
山に対してそう思う人って多いんだろうか。
あれもこれも満たされて人並みに生きる事って、ある意味なんの思想も哲学もなしで生きていけることの裏返しのようにオレには映って見えてしまうけど…




 

2015年5月10日日曜日

緑


暑くもなく寒くもなく、
梅雨入り前のカラッとした陽気。

何をするのも自然と気分が軽くなる季節だ。

以前はあまり気にも留めなかったが、身のまわりの木々の緑がひときわ映えて見えるようになった。


光を求め一心に伸びて新緑する木々の葉は、理屈抜きで綺麗だから…






人に限らずとも、生きとし生けるものは最後に大地へ還る。

精霊たちの眠る大地に根を張って、ただひたすら健気に黙々と、人に注目されようがされまいが、

何百年も木々は生きぬいていくんだから、

綺麗でない理由なんてどこにもない。


2015年4月18日土曜日

マスタング 半世紀


古くからのマスタング乗りの友人に誘われて、イベントのようなオフ会のようなものに参加してきた。
米国フォード車のマスタングの生誕50周年を記念した集まりで、蔦谷モーニングクルーズとのコラボレーションらしい。
関東近郊のマスタングオーナーさん達が代官山に集合。
40台以上のマスタングが年式に関係なく集まってきた。







これだけのマスタングが集まってくる催しは俺も初めてだし、こういう賑やかな集まり自体ひさしぶりだ。
S197が圧倒的に多かったけど、60年代のファーストマスタング、70年台のビッグマスタング、マスタングⅡ、フォックス、SN95、S197、そしてS550マスタングとほぼ出揃った感じ。
アメリカ生まれの車が遠く離れた島国でこうして集まってくるということ自体すごい事で、この車の根強い人気というのが垣間見れた。
自分もマスタングを3台乗り継いできたし、何年かぶりに偶然会うオーナーさんも何人も来ているぐらいだから、マスタング乗りは一途なオーナーさんが多いんだろう、きっと…


2015年1月11日日曜日

Shelby GT500


納車してから半月が経った。

やっぱりマスタングにして良かった。
コルベットと比べ、ワクワク度が全然違う。

でも、サスは硬くてかなり軋むし、可倒しない本国ミラーはバカでかい。
エアコンはあってもダイアル式。野暮ったいラジオのアンテナもおっ立っていて、メーターに目をやればMile表示。
国産や欧州車が好きな人からしたら、とても21世紀の車とは思えないような感覚を抱くだろう。
はっきり言うと不出来なのだ。
ただ人間と一緒で、容姿端麗で文武両道のエリートよりは、少し愛嬌があるぐらいの方がオレはやっぱり好きなんだ。
無骨でパワーがあって文句なしにカッコいい、それでいてフレンドリー。
それがマスタングなんだから…

2008年型のこいつはS197の初期のモデル。一番好きなモデルだ。
金の事もあるだろうけど、後期モデルだったら買ってない。それぐらい好きだから。
Shelby GT500というネーミングだが、別に昔からあるシェルビー社の車両ではない。
キャロルシェルビーが少し関わっているとは聞いても、何をどこまでやっているのかは良く知らない。
あくまでFord社のカタログにある車で、以前の愛車だった97コブラ同様、SVTのエンジニアの息がかかっている。
でも「シェルビーに乗ってるぜ」と自慢しても嘘ではない。
SuperChargerを積んだこいつはどれほど凶暴なのかと思っていたけど、そんなにキチガイみたいな加速はしない。まあそれにしたって踏み込んだら命や免許がいくつあっても足りないぐらいのパワーの持ち主、大事に乗ってやりたい。


コルベットのC5を半年で降りて、衝動買いしたマスタング。
なんとなく思うのは、すごく満足できる車にやっと乗れたなぁって事だろうか。
もう当分アメ車に乗ったり遊びに行くのは無理と思っていたけど、いろいろな出来事とめぐり合わせで、ここまで来た。
別に次の車の夢を全く捨てるわけではないけど、値段の張る車を買うのはまあこのぐらいでいいんじゃないかって気もする。上を見れば物凄い車はいっぱいあるけど、そこまでして欲しいという感覚もない。

オレの身分からしたら、こいつは上等すぎるぐらいの奴なんだから





2014年12月15日月曜日

あとわずか

 

2014年もあと少しだ。
ここにきて、現場も少し落ち着いてきた。自分の現場と他の応援が交錯して、なんだか変に慌しい1年でもあった。まあ仕事が忙しいのはとてもありがたい事だから文句は言えない。来年は更なる大量の税金が来るのも確定だ。

相棒が逝ってから、仕事や人付き合いのやり方も徐々に変わっていった1年でもあった。
応援工事も増やしたし、年末の忘年会も4,5回は参加して、俺の嫌いなコンパニオンやらキャバクラなんかにも付き合いで行ったりした。女が嫌いというわけではないけど、色を売る商売というのがどうも好きになれなかった。でも少し勉強になることもあった。
20代の若い女の子達。昼間働いて夜はキャバで、という子も結構いて感心させられた。若い子は若い子なりに夢を持ち、でも不安もあってという中で迷いながら頑張っているみたいで、そんな想いを聞いてあげているうちに女の子がいろいろと喋りだすもんだから、いつの間にか聞き手役のお父さんみたいになっていた。でもどちらかというと自分で発散するよりはこうやって聞いてあげながら、おしゃべりしていた方が気楽で楽しいし、相手も楽なんじゃないかなぁなんて勝手に思ってみたりもした。派手で露出の多い服を着ている子たちを見て「そういうのは彼氏の前だけにしてあげなさいよ」
なんて思いも一緒に抱きながら。

話しが変わるが車の話し。
今年は自分にとっては最大の暴挙に出た年でもあった。
Z51を半年で手放すことになったからだ。
横浜の店に夢の車がお手頃なプライスで売りに出ており、気がつけばお店に出向いていた。
結論から言うとまたその日に契約してしまった。Z51の下取り価格がとても高額だったのが決め手だったんだけど。
あとは、コルベットに乗りながらなんとなく感じていた事が一つだけ。
「FORDの車の方が楽しい」って事。見た目も名前もコルベットの方が華があるしスポーティで上品、造り込みもいいんだけどね。
でもやっぱりマスタングの感触の方が性にあってるみたい。同じV8でも好みの乾いたサウンドを奏でるし、顔は厳つくてもなんとなく愛嬌もあるし。

ただこいつにはマスタングの名は付いてないけど…




2014年7月7日月曜日

Route 20



単身上京してきてから30年近くの年月が過ぎた。

いままでいろんな単車や車でこの道を走り抜けてきた。


独りで走ったり…

恋人とタンデムしながら…

おんぼろのHomyにバンドの機材を積んで仲間たちと…

相棒と共に馬鹿ばなしをしながら…

仕事の道具を積んでクタクタになりながら…


        これからまたどんな風に駆けてゆくだろうか



             

2014年5月21日水曜日

2002 コルベット Z51



とうとうやってしまった。
多摩地区のシボレー店に、以前都築に見に行ったときと同じC5が入庫されていたので見に行った。
店に車を入れるとすぐにセールスの人が来た。

「シルバーのコルベット見せてください」と伝え、車を見せてもらう。
セールスの顔つきを見てると、「どうせひやかしだろ…」といった面持ちが伺える。
エンジンを掛けて、車内に座らせてもらう。ずっとディーラーで面倒を見ていたようで、12年落ちでもとにかく綺麗な車両だった。もちろん現代のインジェクションの車だからアイドリングも安定している。
コルベットが欲しくてこの前も行った都築の店の話しや、アメ車は10年乗ってたよという話しなどをしているうちに、セールスの態度が序々に低姿勢になってきて、「お見積もりだけでも…」と店内に案内された。
アイスコーシーを飲みながら、自分の仕事やアメ車好きの話しを世間話しを織り交ぜながらセールスと話した。
「試乗されてみます?」と切り出してきた。
「もちろん是非」
二人で車内に乗り込み、国道に出た。
マニュアルトランスミッションだから最初はギクシャクしたが、エンストすることもなく走行を続ける。
なんというかすごくジェントルな感じがした。OHVのV8はそれなりに重低音ではあるが、車内での会話の妨げにはならないし、乗り心地も洗練されている。よくアメ車は「マッスルカー」という風に形容されるが、これはマッスルカーではないと思った。
以前のドタ足のマスタングと比べてしまうのもなんだが、やっぱり定価700万越えのアメリカンピュアスーパースポーツ、「コルベット」だけのことはある。サイドミラー越しに写るリアフェンダーの張り出しは、それはもう尋常ではないし、ワイド&ローのデザインは唯一無二。どこからどう見てもコルベット。
結構長い時間試乗させてもらい、店にもどる。

「購入を決めていただけるようでしら、古い車ですし勉強させていただきます」とセールスに背中を押される。オレの性格が良くわかっているようだ。
「税理士に相談してみますよ」と、オレはその場で顧問税理士に電話で相談。
もちろん自分の金で買うのだから問題はないが、経費ではなに一つ落とせないことだけ念を押された。ちょっと図々しいタイプの輩なら、税理士に接待でもして手篭めにしてうまいことやるんだろうけどね、そんなことはしない。互いのためにならない。

再び店内の机に座り、再見積もり。随分と引いてくれた。
これもセールスの一連のマニュアルなのかもしれないが、オレはもう契約書に拇印していた。
5000円の手付けだけ渡した。コルベットは以前から欲しかったけど、正直この日に契約なんて考えてもいなかったから、ハンコも金もなんにも持ってなかった。
ただやっぱりこういう買い物は半ばやけくそ半分ではないが、思い切りがないと買えない。
オレもそんなに若くないし、人生一回だけだから、そんな風に自己完結していた。







そんなこんなで昼も食わずに店に3時間ぐらい居ただろうか…

2002年型 コルベット Z51 6MTが手元にくるのはいつの日か






2014年5月18日日曜日

コルベット


オレも50歳から数えたほうが早いような年齢だが、亡くなった相棒との共通点といえば、「車が好き」というのが一つあげられる。
最近はネットでコルベットやマスタングの検索ばかりしているが、今日もふとページを見てみるとC3の4MTのコルベットが神奈川方面で売り出されている。どうも出てきたばかりのようだ。
よく見ると、C3とC5の2台が出ていて、なぜか国内の某車メーカーの同一店での扱いになっている。
同じ店で2世代のスティックシフトのコルベットが見れる。もうオレの足はその店に向かっていた。
店に入ると、それはもう国産メーカーのディーラーさんだから一見さんでもにこやかに迎えてくれて、アイスコーシーなどを馳走になる。
しばらくするとそのディーラーの社長(オーナー)さんが出てきた。
「このコルベット、実は2台とも私の持ち物なんです、もう1台、C6も持ってるんですよ」だそうで…。

世の中にはいろいろな筋金入りの人間がいるものだ。おまけに「C3コルベットを4台所有していたときもあるんですよ」とのこと。いやはや、オレなんかは足元にも及ばない。

早速、裏手にある駐車場に案内してもらうと、ホワイトのC3とグレーのC5が鎮座していた。
社長さんはおもむろにKeyを取り出し、こっちがC5でこっちがC3ですと言って渡してくれた。
オレがC3コルベットを前にまごまごしていると、「車を前に出してあげましょう」といって車に乗り込み、Keyを捻ってC3のエンジンに火を入れてくれた。
キュルルッ…、ズダダンッ! ドドッ、ドドッ、ドドッ… 一発で難なくV8エンジンは鼓動を始め、ヘルシーなアイドリング。

「整備はそれなりに金掛けてますよ」
なるほど、さすが社長。なんだかすごく頼もしい。
ちなみにこの段階でオレの頭の中は「C3コルベットを乗り回す構図」で一杯になった。
正直言って、買ってしまいそうな気がする。

人生一回きり。
「カミさん子供もいないんだったらこれしかない。
去年あれだけ苦しんでいたから何か一つぐらい買ってもいいだろ」

心の中は幼稚で大人げないオレが叫んでいた。


 

2014年4月27日日曜日

山行



4月に入ってから、山を5本も歩いた。
高尾山、御前山、御岳山、武甲山、そして今日の乾徳山。
できれば夏にでも3000m峰に登りたいのもあって、トレーニングがてら関東近郊をあちこちと。
おかげで最近、ケツと太ももが太くなった。
膝があまり調子よくないから、様子を見ながら徐々に標高をあげていく。

今日の山は山梨市にある乾徳山。朝の5時半に登りはじめ、10時半に降りてきた。
標高2,031m。頂上付近は結構険しい。
最初の短い鎖場で久々にビビったし、足も震えた。
次の長い鎖場もちょっと躊躇したけど、垂直の壁というほどでもなかったので登った。でも帰りは迂回路がないとオレはたぶん降りれなかったと思う。








頂上も結構スリリングで、岩に腰をおろして握り飯を食ったけど、身体も小刻みに震えていてドキドキした。頂上は人っ子一人いなくて、乾徳山の頂きをちょっとだけ独り占めできた。






周りは360度のパノラマで、富士山や白峰三山が見えた。
南アルプスは上部が冠雪して、麓のほうは霞がかかっているので、ぽっかりと山が浮いているように見える。
山も高く大きくなると、山容もキリッとして凛々しい。




 
「またおいで」
南アが心の中に話しかけてくるような感じだった。